なぜ私はサカナクションの『ナイトフィッシングイズグッド』が好きか 〜音楽体験のススメ

『ナイトフィッシングイズグッド』は、2008年に発売されたサカナクションのアルバム『NIGHT FISHING』に収録されている一曲です。

アルバムのリード曲ではないのですが、作詞作曲の山口氏はこの『ナイトフィッシングイズグッド』をリード曲に推薦していました。結局、この曲は6分と長く、MVを作りづらいというスタッフ側の意向により、リード曲は『サンプル』という別の曲になってしまいました(出典元)。しかしながら、山口氏はMVを自主制作してYoutubeに公開しています。


何が言いたいかというと、

『ナイトフィッシングイズグッド』は非常に良く出来た曲だ

ということです。

なぜ、山口氏はスタッフの意向に反抗するかのようにこのMVを自主制作したのか。リード曲にならずとも、6分という長さを妥協しなかったのはなぜか。この曲の優れた点はどこにあるのか。この記事では、『電車かもしれない』の記事で述べた、「音楽と歌詞の相乗」に焦点を当てながら、以上のようなことについて考えていきたいと思います。上の動画で曲を聴いてから読むことをおすすめします。


以下、歌詞を掲載します。ぜひ、見ながら聴いていただきたいです。


  いつかさよなら 僕は夜に帰るわ 何もかも忘れてしまう前に

  ビルの灯りがまるでディレイのように流れてた いつまでも

  夢のような世界があるのなら

  僕も変われるかな

  アスファルトに立つ僕と月の

  間には何もないって知った Ah

  去年と同じ服を着ていたら

  去年と同じ僕がいた

  後ろめたい嘘や悲しみで

  汚れたシミもまだそのまま

  何もない夜に 何かあるような気がして

  君に電話してしまうんだ いつも

  いつかさよなら 僕は夜に帰るわ 何もかも忘れてしまう前に

  ビルの灯りがまるでディレイのように流れてた いつまでも

  ゆらゆら揺れる水面の月 忍ぶ足音 気配がした

  草を掻き分け 虫を払うかのように君を手招きする

  目を細む鳥のように今 川底 舐めるように見る

  かの糸 たぐり寄せてしなる 跳ねる水の音がした

  ラララ きっと僕が踊り暮れる 夜の闇に隠れ潜む

  ラララ ずっと僕が待ち焦がれる恋のような素晴らしさよ

  いつかさよなら 僕は夜に帰るわ 何もかも忘れてしまう前に

  ビルの灯りがまるでディレイのように流れてた いつまでも

  この先でほら 僕を待ってるから行くべきだ 夢の続きは

  この夜が明け疲れ果てて眠るまで まだまだ


まず、パッと聴いて気づくのは、曲調が次々と変わってゆくことです。はじめはバラード調で、次に転調部分でダンスっぽくなり、すぐさま合唱へ移行、最後に完全なダンスミュージックとなって幕を下ろします。つまり、この曲は4つのパートから構成されています。

次に歌詞を見て気づくのは、これが夜釣りの歌であることです。曲名からも明らかです。

さて、なんとなく聴いていているとこれくらいの情報は得られますが、しかしこの曲から得られる物語や、情景といった具体的なことに関しては、これだけでは分かりません。それを知るには、「音楽と歌詞を合わせて」考えなければならないのです。

では、具体的に歌詞を見ながら考えていきましょう。



①バラードパート:無為


  いつかさよなら 僕は夜に帰るわ 何もかも忘れてしまう前に

  ビルの灯りがまるでディレイのように流れてた いつまでも


冒頭です。心情と風景が語られます。一行目はなかなか意味の捉えづらい歌詞ですが、バラード調で歌われていることや、ボーカルの歌い方を考えると、やはりネガティブなことを意味していると考えられます。

今までに起こった出来事をなにもかも忘れてしまう前に、「夜に帰るわ」というわけです。この「夜に帰る」というのはいろいろな捉え方ができますが、ネガティブな部分であることと、「帰る」という表現から、「夜に安住する」という表現に言い換えられると考えられます。例えば、夜に今までの思い出を振り返ったり、夜釣りをしながらぼんやり過去を回想したり......といったことでしょう。いずれにせよ、「僕」夜に今までの思い出を思い返すことでしか自分を保てていないのです。

「ディレイ」というのは音楽用語で、音を山びこのように残響させることです。「ビルの灯りがまるでディレイのように流れ」るというのは、イメージとしてはこんな感じでしょうか。

ゆらゆら、ぽつぽつと、明かりが水面に流れていく感じです。今まさに「僕」は夜に一人、海の前に佇み、釣りをしながら思い出に浸り、水面に揺れるビルの明かりを眺めているわけです。

ネガティブなバラード部分は更に続きます。


  夢のような世界があるのなら

  僕も変われるかな


ここでは「僕」が、自分の過去志向のネガティブさを変えたいと願っています。

続いて情景描写。


  アスファルトに立つ僕と月の

  間には何もないって知った Ah


孤独に一人、夜に佇む様が強調されます。


  去年と同じ服を着ていたら

  去年と同じ僕がいた

  後ろめたい嘘や悲しみで

  汚れたシミもまだそのまま


再び「変われない自分」の描写がなされます。過去になにか後ろめたさや、悲しみがあるのでしょうか。それらから脱却できず、ひたすら過去を回想し続けることでしか自分を保てないわけです。


  何もない夜に 何かあるような気がして

  君に電話してしまうんだ いつも


しかし、何も希望を見出していないわけではありません。それでも夜に何かを期待している、変化の契機を求めていることが分かります。

そして繰り返される冒頭部分。


  いつかさよなら 僕は夜に帰るわ 何もかも忘れてしまう前に

  ビルの灯りがまるでディレイのように流れてた いつまでも


変わりたいのに変われない、シミで汚れた服を脱ぎ捨てたいのに着続けてしまっている自分。いつも夜に期待しているものの、今日も無為に1日が過ぎて行き、過去を振り返り続けるしかない......。このバラードパートでは、そんな「無為」「孤独」「無変化」といったものが、ゆったりした夜の描写とバラード調で伝わってきます。



②転調パート:兆し

さて、ここから転調に入り、徐々にダンスミュージック気を帯びてきます。曲のストーリーにも変化が訪れてくるのです。

余談ですが、①から②への転調は、クイーンの『ボヘミアン・ラプソディ』そのままで、同じリフを用いています。『ボヘミアン・ラプソディ』も、転調の多さで有名な曲です。

  ゆらゆら揺れる水面の月 忍ぶ足音 気配がした

  草を掻き分け 虫を払うかのように君を手招きする

  目を細む鳥のように今 川底 舐めるように見る

  かの糸 たぐり寄せてしなる 跳ねる水の音がした


はい、その通りです。魚がかかります。夜釣りをしながらぼんやりしていたら、魚がかかっとるやんけ! という部分です。

ここで、明らかに音楽も歌詞も、雰囲気が①のパートから変化します。音楽としては急な転調が、歌詞としては「魚がかかった」描写が、この変化を示しています。聴き手はこれにより、ネガティブからポジティブへの変化を予見します。おっ、何かが変わるぞ、という期待感を、まさに曲中の「僕」と同様に味わうことになるのです。



③合唱パート:衝動

このパートで一気に主人公の感情が溢れ出してきます。


 ラララ きっと僕が踊り暮れる 夜の闇に隠れ潜む

 ラララ ずっと僕が待ち焦がれる恋のような素晴らしさよ


「ラララ」「素晴らしさよ」と、テンションMAXです。さっきまでの孤独感がウソのようです。誰かと一緒に歌い出したくなるような合唱が、この感情をよく表現しているのです。

普段なら「きっと踊り暮れ」ていた、つまり変われずにくすぶっていた「夜」に、魚=希望が「隠れ潜」んでいた、ということを言っています。魚がかかったときの驚きと喜びは、まさに「ずっと」自分が求めていた変化の契機であり、「恋のよう」「待ち焦がれ」ていたものだったのです。


④ダンスミュージックパート:変化

魚が釣れ、とうとう「僕」にも変化の時が。曲調も明るく楽しいダンスミュージックへと変化し、いよいよクライマックスになります。

しかし、ここで歌詞をみるとちょっと驚きます。


  いつかさよなら 僕は夜に帰るわ 何もかも忘れてしまう前に

  ビルの灯りがまるでディレイのように流れてた いつまでも


「変化」のクライマックスの部分で、歌詞は「変化」していないのです。つまり、冒頭部分をそっくりそのまま用いています。どういうことでしょうか? 実はこの部分がこの曲の最もウマいところで、まさに常々私が主張する「音楽と歌詞の相乗」を体験しないと、意味が分からないようになっているのです。

この記事で私が主張したことは、すなわち「曲は曲であることに必然性がなければならない」ということでした。歌詞だけで伝わるのなら詩を書けばいいし、音楽だけで伝わるならインスト曲で結構。なぜそうではなく「曲」にしたのか、そこに意味はあるのか、ということを重視しなければならないのです。そうでなければ、「曲」という表現形態の意義が失われてしまうからです。

さて、話を戻しましょう。冒頭と全く同じ歌詞ですが、明らかに「変化」があります。それは、曲を音楽と歌詞が一体となった「曲」として聴けば、自ずと見えてきます。すなわち、ここで語られるのは明らかにポジティブな心情なのです。「何もかも忘れてしまう前に」というのは、過去の出来事のことを指すのではなく、「魚を捕らえた驚きと喜びを忘れてしまう前に」という意味でしょう。つまり、最初のように「思い出に浸り自分を保つために、いつもの夜へと帰る」のではなく、「新たな活路を見出した感動を忘れぬうちに、夜に家へと帰る」わけです。「夜に」の意味が最初と最後で変化しています。水面に揺れるビルの灯りも、冒頭ではぼんやりと孤独な「僕」を際立たせるものでしたが、ここでは何か希望を与えるキレイな風景として見えてきます。

最後に、この一連でこの曲は幕を下ろします。


  この先でほら 僕を待ってるから行くべきだ 夢の続きは

  この夜が明け疲れ果てて眠るまで まだまだ


ハッピーエンドですよ! と駄目押しするかのような最後です。

今まさに自分は前の部分の歌詞に出てきた「夢のような世界」、すなわち「自分が変われる世界」にいるのだと気付いたわけです。夜という時間がポジティブなものに変わっていますね。帰った先には何かしらの変化が待っています。疲れて寝てしまい、夜という「夢のような世界」が終わってしまうまでに、何か自分を待っているものがあるし、まだまだ時間はある、自分にできることはあるのだ、というわけです。

ちょっと音楽的技巧のことに触れますと、この曲の最後の音は主音が最高音である和音ではありません。「半終止」とか「偽終止」とか種類があるようですが(私も詳しくは知りません)、簡単に言うと、「終わった感じがしない終わり方」になっているのです。聴いてみると感覚的にわかると思います。最後に「まだまだ」と言い、最終音もハンパにすることで、これからの希望や、物語の続きを感じさせるようにしていると思われます。



「音楽体験」のススメ

このように見ていくと、この曲の展開は、非常に丁寧に構成されていることがわかると思います。ストーリーの変化に合わせ、曲調も変化させているのです。

それも、ただ歌詞を際立たせるためではありません。むしろ、この曲において、音楽と歌詞は相補的な役割を担っているのです。音楽なしでは歌詞の意味が分かりませんし、逆もまたしかり。お互いがお互いに意味を与え合うからこそ、この曲が「曲」として成立しているわけです。

これだけの転調が必要となれば、6分という長さにも納得できます。曲を聞き終えたとき、まるで一つの映画を見終えたような気分にさせられます。商業的な理由もあるのでしょうが、この曲をリード曲としなかった当時のスタッフにはおいおいと言いたくなります。この曲において、長さそのものは本質ではないのです。

山口氏は、この曲を以下のように解説しています。


一人で釣りをしていたら、物思いに深けてしまって、けど魚が釣れて慌ただしくなってきたら、最初に思っていた事の意味がポジティブに変わって来たという曲。(出典元)


心情の変化、状況の変化、言葉の意味の変化。これを、「曲」という表現形態をとることで伝達可能にしています。「曲」であることの必然性があるわけです。まさにここが、私がこの曲の優れた点と主張するところなのです。

曲が「曲」であると、何が良いのか。前述のとおり、「曲」という表現形態の意義が失われないというメリットもあります。しかしそれ以上に私が重視したいのは、このような曲は、聴き手に「音楽体験」を提供してくれるということです。この曲を聴くと、少なくとも私のなかでは、夜釣りの物語が展開されてゆき、主人公と同じような体験をした気分になり、そして何かしらの感情が芽生えてきます。これこそがまさに「音楽体験」です。私は、音楽の最重要性は、まさにこの「音楽体験」にあると考えており、それは映画における「視聴体験」(これについては、『ファインディング・ドリー』の記事で詳しく議論しています)、読書における「読書体験」にも、同じことが言えると思っています。音楽体験をさせてくれる曲は、聴き手に新たな世界を提示し、膨らませ、豊かにしてくれます。そんな音楽が見つかれば、私は幸せだと思います。

私にとって、『ナイトフィッシングイズグッド』はまさに「音楽体験」を提供してくれる音楽でした。もちろん、誰にとっても上のような解釈が通用するわけではないですし、人によってどの曲を好きになるかは変わります。つまり、この記事で私が言いたいのは、『ナイトフィッシングイズグッド』を好きになれ、ということではありません。私が最も主張したいことは、私にとっての『ナイトフィッシングイズグッド』であるような曲、すなわち「音楽体験を提供してくれる曲」を、皆さんも見つけてほしい、ということです。そのためには、作り手は「音楽と歌詞の相乗」を目指した曲作りをしなければならいですし、聴き手は「音楽体験」に着目した聴き方をしなければなりません。それでも、ちょっといつもと聴き方を変えてみたら、新たな発見があるかもしれません。



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