『ファインディング・ドリー』からPIXARの哲学を垣間見る【ネタバレ】

前作から実に13年ぶりの続編。すでにアメリカでは歴代アニメーション作品のオープニングNo.1記録を樹立する大ヒットとなっています。

今回の記事では、ちょっとメタな観点から、「PIXAR映画」が目的とするものは何なのかということについて考えていきます。



〈あらすじ〉

あなたの忘れられない《思い出》は何ですか?

それは、何年たっても、どんなことがあっても、決して色あせることのない、かけがえのない宝物…。

カクレクマノミのニモのいちばんの親友で、何でもすぐに忘れてしまうドリーが、たったひとつ忘れられなかったもの──

それは、小さなころの《家族の思い出》でした。

どうして、その思い出だけを忘れなかったのだろう?そして、ドリーの家族はいったいどこに…?

謎に包まれた秘密を解く鍵は、海の生き物にとって、禁断の場所=《人間の世界》に隠されていました…。(公式サイトより引用)



〈感想の前に〉

この映画を見終わったとき、真っ先に私が思ったのは「この映画の記事どうしよう...」ということでした。

そもそもPIXAR映画は、昔から王道テーマをブレずにとことん追求している映画です。「仲間や家族の大切さ」「あきらめない気持ち」「信頼と勇気」......などなど、いつの時代でも大切なことを、設定やモチーフを変えてはこれでもか、これでもかとド直球で提示してくるのがPIXAR映画なのです。従って、PIXAR映画は往々にして、「このシーンはこういう意味で、ここに主題があって、あのセリフが象徴的で......」という風に頭で色々考えを巡らすよりも、むしろ「映像美に酔いしれる!」「泣けるシーンで泣く!」「視聴後の余韻にひたる!」というふうに、「考えるより感じる」視聴体験をする方が望ましいことが多いのです(ただし、PIXARは時に鋭い社会風刺や警鐘的メッセージを練りこんでくるのも事実です。これについては後述)。

私が悩んだのはここです。つまり「見りゃわかる」映画なので、「わざわざ記事を書く必要がないのでは?」と思ってしまったのです。とりわけ今回の映画では、見ていてあざといと感じるくらいにキャラクターが名言チックなセリフを連発します。嫌な言い方になってしまいますが、製作者の意図が透けて見えるのです。いかにもなセリフを取り上げていかにもな感想をわざわざ記事にするのもどうかなと思ったので、今回の記事は趣向を変えてみます。

今回の記事では、


1. 『ファインディング・ニモ』から何が進化し、何が退化したか
2. 「大人も子供も楽しめる」ことの大切さ


の二つについて考えていこうと思います。 

1.では前作と今作を比較することでPIXAR映画の手法を捉え、2.では1.で考えたことを踏まえてさらに「PIXAR映画」そのものの哲学について考えます。両方とも今回の映画の「見りゃ分かる」「考えるより感じる」部分ではなく、もう一歩二歩踏み込んだメタな内容を扱っているので、今回の記事タイトルは「メタ感想」としました。



〈メタ感想〉 

1. 『ファインディング・ニモ』から何が進化し、何が退化したか

進化ポイント1:「重いテーマ」

前作『ファインディング・ニモ』における「裏にひそむ重いテーマ」、すなわち「人間が環境に与える影響」「ハンディキャップを背負った者と社会」「過保護な親の問題」がそっくりそのまま、一部に関してはバージョンアップされて盛り込まれています。

「人間が環境に与える影響」については、「生き物を何だと思ってるのかしら」と言いながらドリーを連れ去ってしまう研究者や、苦しみながら子どもたちに体を掴まれ弄られる海の生き物たちにこれを垣間見ることができます。「ハンディキャップを背負った者と社会」については、前作ではハンディキャップを持つ主要キャラクターがニモとドリーとギルの三匹しか登場しなかったのに対し、今作では主要なキャラクターはほぼ全てハンディキャップを背負っています。例えば、ドリーやニモはもちろん、7本足のハンクに、視力の悪いデスティニー、エコロケーションに問題を抱えるベイリーなどなどです。「過保護な親の問題」については、ドリーと再会した彼女の両親がこの役を担当しています。どれも作品を奥の深いものにしており、大人も楽しめることでしょう。

進化ポイント2:「映像美」

映像美は前作以上に圧巻です。海中の表現や、水族館の魚の表現などにそのパワーアップ具合を感じることができます。もはや作品自体が一つの水族館のようで、その映像の美しさだけでも楽しむことができます。ただし、前作との連続性を持たせるために「やり過ぎていない」ことがまた優れていて、さじ加減が丁度良いのです。大人も子供も釘付けになることでしょう。

進化ポイント3:「仲間と家族」

今作では前作以上に様々なキャラクターが出てきます。例によってドリーは色んなトラブルに陥るのですが、それを支える仲間と家族の一体感や、連帯感といったものを、前作以上に感じることができます。出てくる奴がどいつもこいつも「良い奴」で、初対面でも手を貸してくれる。さらに、ドリーを心から愛し信頼する家族や、前作で強い絆を結んだマーリンとニモの存在も手伝って、一種の理想世界みたいなものが描かれています。皆が協力し、認め合い、連帯している様には、心が洗われるでしょう。大人も子供も楽しめること請け合いです。

退化ポイント1:「リアリティ」

今作では、前作より突拍子もなく、リアリティに欠ける場面が多く出てきます。その最たる例は終盤のカーチェイスでしょう。あれは明らかにやり過ぎです。他にも、デスティニーとベイリーが軽々と水族館から脱出してしまったり、ハンクのチート能力だったりと、人によっては興ざめに感じるであろう部分も多々見られました。


退化ポイント2:「マーリンとニモの役回り」

マーリンとニモはあまり活躍しません。それどころか、ドリーの家族探しの役に立ったかどうかという点から言えばハンクやデスティニーたちの方が存在感があります。公式サイトには「今度はボクがドリーを助けてあげる」というセリフがピックアップされて書かれていますが*、このイメージで映画を観ると肩透かしを食うことでしょう。むしろドリーを「心配する」「愛する」「信じる」など、メンタル的なサポートに徹する役回りになっていました。

退化ポイント3:「あざとい」

前述のとおり、今作では名言が連発されます(しかも主にドリーによって)。あるいは、前作以上に「仲間や家族の大切さ」「あきらめない気持ち」「信頼と勇気」というものが「セリフによって」強調されています。具体的には、タッチゾーンからの脱出をする際にドリーがハンクに対して「怖くても、諦めちゃダメなの!」と諭したり、ドリーの回想で彼女の両親が毎回いいカンジのコトを言ってたり、良くも悪くもメッセージが分かりやすいのですが、前作の絶妙な表現感覚からは退化したかなという印象でした。


さて、総合的に見ると、PIXAR映画においては「大人も子供も楽しめる」ということを重視しているように思われます。大人を釘付けにする工夫はよくなされていますし、もちろん子供を惹きつける話作りも怠っていません。このことについて、次項で詳しく考えていきたいと思います。



2. 「大人も子供も楽しめる」ことの大切さ

無垢と狡猾を使い分けるPIXAR

PIXAR映画を観て毎回すごいと思うのは、「大人も子どもも楽しめる」作りになっていることです。その秘密は「無垢と狡猾の顔を使い分ける」ことにあります。

無垢なPIXARは、毎度毎度ワクワクするような設定・モチーフを提示します。しゃべるオモチャにモンスターの会社、ネズミのコックにスーパーヒーロー一家など、どれも愉快で楽しいPIXARワールドを形成しており、そこに魅力あるキャラクターと持ち前のアニメーションが加わることで、子供だけでなく大人もグングン惹きつける仕組みになっています。他にも、笑いの取り方や演出の愉快さなどにも、PIXARの無垢な一面を感じることができます。

一方で、狡猾なPIXARというものが存在します。それは、大人もハッとさせられるような教訓的ストーリーを提示してくる場合で、特に前述のように鋭い社会風刺や警鐘的メッセージを練りこんでくるときは要注意です。例えば前作『ファインディング・ニモ』でよく言われることは、「人間が環境に与える影響」や「ハンディキャップを持った者と社会」、さらには「過保護な親の問題」という観点が描かれているということです。最後のものに関しては完全に大人を対象としたメッセージであり、PIXAR映画が子供だけを対象としていないことをよく示しています。というのも考えてみればそれも当然のことで、なぜならそれはPIXAR映画を作っているのが大人だからです。そしてPIXAR映画の紡ぎ出す物語は、そうした大人の作り手たちの実生活が反映されたものになることが多く、従って必然的に内容も一筋縄ではいかないものになるのです。ここに大人が惹かれるポイントがあります。

もう一つPIXARの狡猾な一面として挙げられるのは、設定の奥深さです。しゃべるオモチャにモンスターの会社、ネズミのコックにスーパーヒーロー一家......一見するとただのフィクションですが、これをフィクションと感じさせない力が、PIXAR映画にはあります。例えば、オモチャはいつでも動いたりしゃべったりするわけではなく、人間が決して認知できない状況でのみ活動するという「オモチャのルール」を課しています。これにより、「もしかしたら自分の見ていないところでオモチャが動いているかもしれない」と観客に思わせることができます。今回の『ファインディング・ドリー』の制作過程でもその姿勢は顕著に表れていて、例えばスタッフは実際の水族館での徹底したリサーチや、あるいは海の生き物について入念な調査を行うことで、フィクションの中にリアリティを感じさせようと試みています(ただし、前項で述べたように今作はリアリティが幾分なくなっているので、ここについてはかなりの失敗であると思われます)。ここに、PIXAR映画が「子供向け」「子供だまし」などと評されないための秘訣があるのです。

「大人も子供も楽しめる」がなぜ大切か

ここまでPIXAR映画に見られる一貫したスタンスを論じてきました。ここではさらにメタな視点に立って、そもそも「大人も子供も楽しめる」ことがなぜ大切なのかということについて考えていきたいと思います。

映画において最も大事なのは、それが視聴体験を提供するということにあります。映画を観る観客は、その映画を観ることによってその映画の視聴体験を得ます。なにを当たり前なことをと思うかもしれませんが、私としてはここに映画の強みがあると思うのであり、同時に映画が最も大切にしなければならないポイントがあると考えているのです。それは、音楽の最重要性が音楽体験を提供することにあり、本の最重要性が読書体験を提供することにあることと同じです。

『ファインディング・ドリー』の観客は誰でしょうか? 子供です。確かにそうなのですが、ここで忘れてはならないのは、その子供を映画館まで連れてくる人の存在です。つまり、原則として子供が観る映画は大人も観るのです。逆に言えば、大人と子供が同じ視聴体験を共有する、その場を提供するのがPIXAR映画であるということになります。これを利用しない手はありません。Pixarが「大人も子供も楽しめる」にこだわる理由はここにあるのではないでしょうか。そのような場では、観客の間に地位が生じてはいけません。大人も子供も、等価な観客として扱われなければならないのです。そうすることによって、映画は「大人vs子供」という二項対立を崩す装置になり得ます。「大人は成長していて偉い、子供は未熟で拙い」という日常世界の権力関係を、映画館の中では崩すことができるのです。そういう装置になり得る映画は、得てして年齢を選ばない豊かなテーマやメッセージを含むものであることが多く、Pixarもそのような映画を目指しているのでしょう。①まずは愉快なアニメーションとワクワクする世界を提示して子供を惹きつけ、大人を子供と一緒に映画館まで連れてこさせる。②しかしフタを開けると、無垢な顔も狡猾な顔も見せるPIXARがいる。大人は意図せず子供と一緒に楽しむ。③そして最終的に「権力関係を崩す」という目的は成就されるのです。この手法はPIXARが長年の経験で身につけたものでしょうか。とにかく、この手法は今回の映画でも存分に活かされていることが、これまでの議論から分かります。

そうなると、例えば前作『ファインディング・ニモ』で提示された「過保護な親の問題」というのは、「共有された視聴体験を提示する」ことに一役買っていると言えましょう。つまり、大人がマーリンの過保護さから「可愛い子には旅をさせろ」という教訓を学ぶのと同時に、子供はニモから「可愛がる親から離れ旅をしろ」という教訓を学ぶことになるのです。同じ映画から、同じ量を、同じ方法で受け取る。この構造こそが「共有された視聴体験を提供する」心そのものなのです。そのように等価に扱われた観客には、もはや「大人」「子供」という肩書は必要ありません。最終的に彼らは「仲間や家族の大切さ」「あきらめない気持ち」「信頼と勇気」というあの「王道テーマ」から、もはや大人も子供も関係ない普遍的メッセージを受け取り共有することで、権力関係から自由になるのです。

もっと乱暴な言い方をすると、『ファインディング・ドリー』のような権力関係の崩壊を目指す映画においては、ギャグテイストだったり、かわいいキャラクターだったりといったもの(「無垢さ」)は、全て「子供向けに見せかける装飾」であり、逆に「裏にひそむ重いテーマ」「一筋縄ではいかない作品設定」などの要素(「狡猾さ」)は、「大人を繋ぎ止めるための装飾」なのではないでしょうか。そういったものは大人と子供を取り込むための策略的なものに過ぎず(この要素が瑣末なものであると言っているのではないことに注意)、真に志向されているのは「共有された視聴体験を提供する」ことであるとすると、我々がその作品において最も重視すべきはその内容であり、メッセージであることになります。話は変わりますが、同じことは『仮面ライダー』シリーズにも言えましょう。あれも本来は子供と大人が一緒になって観るべきものだったはずで、だとすればここで最も重要なのはやはり「共有された視聴体験を提供する」ことなのです。このことを踏まえると、今の『仮面ライダー』シリーズに対する評価については色んなことが言えそうです。

日常世界でまま見られる権力関係――「男vs女」「人間vs動物」「作者vs読者」「西洋vs非西洋」。こうした関係を、それぞれ「フェミニズム」「エコロジー」「テクスト論」「文化人類学」が崩そうとしているように、「大人vs子供」の権力関係を崩すムーブメントの一つが「PIXAR映画」である、いやあって欲しいと、私は願ってやみません。もっと言えば、映画作品に限らず、こうした権力関係を崩そうとする作品がPIXAR映画の他にもどんどん立ち現われて欲しいと、私は切に願っているのです。




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