たま『電車かもしれない』に見る音楽表現の可能性

『電車かもしれない』は、2001年に発売されたマキシシングル『汽車には誰も乗ってない』に収録されている一曲です。「たま」というバンドの代表曲の一つでもあります。

今から15年前の曲ですが、この曲を今一度見つめなおしてみる必要性を感じたので、ブログに書き綴りたいと思います。



まずは聴いてみてください。

ただ、映像にはあまり目を向けず、純粋に曲のみを聴いていただきたい。というのは、ここでは曲単体から得られるイメージや内容について考えたいと思うからです(もちろん映像と合わせて聴くと新たに得るものがあります)。


特徴的なのは、まずボーカルの声。そして、イントロからずっと続く、なんとも不思議な「キン...キン...コン...コン...」という金属音のような音。リズミカルながらもどこか不気味でもの寂しいメロディ。そして切なくなるような最後のハーモニカ......特筆すべきはこんなところでしょうか。

全体的に「リズミカル」「どこかフワフワして不気味」「切ない」というようなイメージを抱くと思います。


次に、歌詞を見ていきましょう。



  ここに今ぼくがいないこと誰も知らなくて

  そっと教えてあげたくて君を待っている

  ホラ もうそろそろだよ

  物理の成績の悪い子どもたちが 空中を歩き回る時刻

  夕方ガッタン電車が走るよ夕間暮れの空を

  ぼくらは生まれつき体のない子どもたち


  ここに今ぼくがいないこと誰も知らなくて

  そっと教えてあげたくて君を待っている

  ホラ 寂しい広場では

  まるで算数を知らない子ども達が 砂を耳からこぼしているよ

  台所ゴットン電車が通るよよそのうちの中を

  ぼくらは生まれつき体のない子どもたち


  ああ

  夕方ガッタン電車が走るよ夕間暮れの空を

  ぼくらは生まれつき体のない子どもたち

  ぼくらは生まれつき体のない子どもたち



一見しただけでは意味がわからないかもしれません。

まず、しょっぱなから「ここに今ぼくがいないこと誰も知らなくて」という理解不能の一節。次いで子どもが空中を歩き回ったり、電車が空を走ったり。極めつけは

僕らは生まれつき体のない子どもたち

です。このなんだかよくわからなそうな歌詞が、ファンの間にいろいろな解釈というか、深読みというか、そういったものを流行らせているわけです。

有名なのは「この『体のない子ども』というのは電子のことだ!」という「電子説」

あるいは「堕落した国家を歌った社会風刺的な歌だ!」とか、「中絶された水子の歌だ!」というのもよく聞きます。

いずれにせよ、この「僕らは生まれつき体のない子どもたち」というような不思議な歌詞に、なんとか意味を求めようとしてあれこれ勘繰ってみる方が多いようです。検索すれば沢山出てくると思うのでぜひ見てみて下さい。それはそれで面白いですし、それを読んだ後に再び曲を聴くと、また違ったように聞こえるかもしれません。


さて、ここで私が言いたいのはそういうオモシロ深読みではありません。

あくまでこの歌を、純粋に「メロディと歌詞を一体のものとして」聴いたときに、どう捉えられるかということについて書きたいと思います。その場合には、自分でこの歌を口ずさんだとき、どんな印象を抱いたか、どんな感情が沸き起こったかが重要になります。


まず私が第一にこの曲の柱だと感じたのは、「電車」です。

『電車かもしれない』とタイトルにある通り、「電車」はこの歌の重要なファクターでしょう。「キン...キン...コン...コン...」というあの特徴的な音は踏切の音に聞こえます。そしてこの曲の異様なリズミカルさ。


  夕方ガッタン電車が走るよ

  台所(だいどこ)ゴットン電車が通るよ 


はその顕著な例で、文字を眺めているだけではわからない、歌って初めて気づくなんとも気持ちの良いリズムが隠されています。このリズミカルさは、意図的なものでしょう。電車が「ガッタン ゴットン」と走る感じを詞とリズムに込めたとしか思えません。そう考えると、「夕方ガッタン」はただ単に「夕方にガッタンと電車が走る」と言うためだけの言葉ではなく、「ユウガタガッタン」という一つの効果音のように感じます。「ダイドコゴットン」もそうですね。文字的な意味と、擬音的な意味を内包したわざとらしいワードチョイスに思えてならないのです。


「電車」と同じくらい重要なのは、「夕方」だということです。

この歌は言うまでもなく夕暮れ時の光景を歌った歌です。理由は簡単で、歌詞の随所に夕暮れ時を匂わせるワードが見られ、そしてメロディもどことなく寂しく切ない感じがするからです。「フィーリングじゃねえか!」と言われそうですが、まさにそうなんです。


そもそも歌というものは「こういう感じがする」「なんかこの辺いいリズムだ」「歌うと楽しくなってくる」というように、体で感じ取るものだと私は考えています。文字を眺めて色々解釈したいなら、それは詩にすればいいわけで、わざわざ「曲」にする意味がありません。「曲」にする最大のメリットは、言葉にメロディがのることです。文字だけでは伝えきれなかったり、言い表せないような感情・情景・風情などの抽象的で「感覚的」なものを、言葉を曲にのせることで伝える表現方法が「曲」なわけです。


さて、話を元に戻しますと、この曲は「夕暮れ時」の、しかも恐らく「公園」の光景を歌ったものです。


  ホラ 寂しい広場では

  まるで算数を知らない子ども達が 砂を耳からこぼしているよ


夕暮れ時のどこか寂しい公園の砂場で、算数を習ったことのない幼児が砂まみれになって遊んでいる光景が目に浮かびます。

ということは、これは夕暮れ時の公園にいて、そこで遊んでいる子供や周りの景色を眺めている人物(恐らくこの曲の作者である知久さん)の視点であることになります。

  

   ホラ もうそろそろだよ

   物理の成績の悪い子どもたちが 空中を歩き回る時刻


夕暮れ時、学生の下校時間。公園のベンチか何かでぼーっと眺めているこの人は、そろそろ学生が歩道橋の向こうから歩いてくる時刻だな〜なんて、ぼんやり思っています。「物理の成績の悪い」なんて決めつけてるところに、この人の「傍観者感」がよく出ています。確かに聞き慣れない表現ですが、不思議と「あーこんな感じの学生かな」と想像がつきます。うまい。


「子ども」という言葉も随所に出てきます。学校から帰ってくる子ども、砂場で遊ぶ子ども......。考えてみれば、「公園」という舞台も子どものものです。「ぼく」「君」といった言葉も子ども同士のやり取りを髣髴とさせます。何度も繰り返される「ぼくらは生まれつき体のない子どもたち」という一文。これで曲が終わっていることを考えると、やはり少なくとも「子ども」はこの曲のキーワードであると思われます。


では問題の「ここに今......」と「ぼくらは生まれつき......」は何なんだという話になります。この二つは何かしら意味があると思われます。曲の中で何度か繰り返されていますし、少なくとも聞き手に印象付けたい部分であることは確かです。


   ここに今ぼくがいないこと誰も知らなくて

   そっと教えてあげたくて君を待っている


この部分単体で考えると意味がわからなくなりますが、公園の歌、子どもの歌であるということを考えれば、単にかくれんぼをしている子どもたちの描写に見えます。

なぜ一番にも二番にもこの歌詞が出てくるのかというと、やはりそれはこの部分を印象付けたかったからです。具体的には、なんとも言えない子どもの「得体のしれなさ」「浮遊感」といったものを強調したかったのでしょう。

ただ公園で遊ぶ子ども、ただ下校する子どもを、なぜこんなに気味悪く、フワフワした感じで描写したのでしょう。「ここに今ぼくがいない」だとか、「空中を歩き回る」だとか、「砂を耳からこぼ」すだとか......。まるで体を持っていないかのように描かれています。


    ぼくらは生まれつき体のない子どもたち


結局ここに行き着くわけです。つまり、ぼけーっと子どもたちを観察していると、なんだか大人とは違う感じを覚えるわけです。自由気ままにかくれんぼをしたり、砂場ではしゃいだり、友達とフラフラ下校したりするさまは、まるで体に縛られず、自由で、言うなれば魂の力で動いているかのようだーーそんなことを、夕暮れ時の公園でぼんやり黄昏れながら、この人は考えていたのではないでしょうか。

そんな子どもたちを眺めているうちに、次第に主人公もその子どもたちと同化していきます。さいしょの「ぼく」はかくれんぼをしている子どものことですが、後の「ぼくら」は、その子どもたちを含めた人々全員のことでしょう。最初は子どもたちを眺めて気味悪がっていた自分だって、もともとは魂の力を備えた子どもだったのだ。大人も子どもも変わらないのだ。私はそういう意味に捉えました。

そんな不思議な情景を一層際立てるのが、空に浮かぶように走る電車、住宅街を貫くように走る電車。そして、寂しい夕暮れ時の公園という舞台設定です。雰囲気も合わさって、子どもを見ていると不思議な気分になる主人公。ふと気づくと踏切の音が聞こえ、ガッタンゴットンと何かが通る。アレは電車かもしれない......。朧気な意識。これを文字で伝えるのは相当困難ですが、曲という形態をとることによってそれを可能にしています。この曲を聴いただけで、そこには一枚の絵画を見たときのような鮮やかな情景が広がります。


この曲の素晴らしさは、メロディと歌詞が結びついている点。そして、歌うことにより曲の情景が感覚的に浮かび上がる点です。メロディだけでも、歌詞だけでもダメなのです。それらを一体のものとして受け取り、歌として歌った時に初めて、受け手は作品の真価を味わえる......そういう曲は、やはり理想的なものだと私は思います。「曲」は「曲」であることに必然性がないといけないのです。これがこの記事で私が言いたかったことです。別に、上で挙げたような「オモシロ深読み」を否定するわけではありません。そういうものは、曲に新たな世界を与え、新たな価値を生み出すことに一役買っています。はじめの動画も、映像と合わせて聴けばまた違った印象を受けるでしょう。私が言いたいのは、そのように作品を加工する前に、一度「あるがまま」の状態で、純粋に作品を作品として受け取ってみようとすることが大事だということです。繰り返しになりますが、「曲」であるからには、「曲」でなければならなかった理由があるはずなんです。何も考えずに真っ白な状態でこの曲を聴いたとき、果たして「国家」や「電子」のような概念がどれだけ心のなかに浮かんだでしょうか。少なくとも私は、あのハーモニカの余韻と、夕暮れ時の公園、電車、子どもたち.......そういうものを第一に感じ取りました。歌詞を自分なりに解釈して、意味づけるのは、その後でいいのではないかと思うわけです。もちろんここで私が書いた解釈も自分勝手なものです。私が言いたいのは、「私と同じように解釈しろ」ということではなく、「まずは曲を曲として受け取ってみようよ。試しに私がそれをやると、こんな感じになりますよ」ということです。





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