マーベル・シネマティック・ユニバースもフェイズ3に突入しました。
アベンジャーズからインフィニティウォーへとつなぐ第一歩となる本作、期待通り......
いや、
期待以上の出来栄えでした。
〈あらすじ〉
数々の危機を救ってきた“アベンジャーズ”が、国連の管理下に置かれることを巡り、激しく対立するアイアンマンとキャプテン・アメリカ。さらに、ウィーンで起こった壮絶なテロ事件の犯人として、キャプテン・アメリカの旧友バッキーが指名手配されたのを機に、アベンジャーズのメンバーは大きな決断を迫られる。過去を共にした無二の親友か、未来を共にする仲間たちとの友情か――ふたつの絆で揺れるキャプテン・アメリカがある決断をしたとき、世界を揺るがす“禁断の戦い(シビル・ウォー)”が幕を開ける。(公式サイトより引用)
〈感想〉
何が期待以上だったか。それは、
1.「正義」「争い」「人間の不完全性」という重いテーマ
2.これからのアベンジャーズの方向性
3.新キャラの登場
4.(新キャラを含む)スーパーヒーロー一人ひとりのドラマとアクション
5.これまでのMCU作品との連携
6.数々のファンサービスシーン
これらを詰め込んだ感なく全て詰め込めているところです。
1.「正義」「争い」「人間の不完全性」という重いテーマ
内戦の意味
この物語の軸は、その名の通り「シビルウォー」、つまり内戦です。
これまでのMCU映画にはヒドラやロキなどのいわゆる「悪」が存在し、ヒーローという「善」がそれに立ち向かうという構図で物語が描かれました。その勧善懲悪の構図は、2012年に公開された『アベンジャーズ』で全盛期を迎えます。これがフェイズ1でした。
しかし、フェイズ2に入るとその構図は揺らいできます。『アイアンマン3(2013)』『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー(2014)』などでヒーローたちは各々で自身の在り方を模索していき、『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン(2015)』ではヒーローが悪を生み出してしまい、ヒーロー同士で信念がぶつかり合います。結果として、アベンジャーズを抜ける者、一時退く者、新たな活路を開こうとする者など、ヒーロー一人ひとりのスタンス・主義というものが徐々に固まってきます。
そして来るこの作品。フェイズ3は、これまで入念に積み立てられてきたMCUの歴史の上に、実に効果的に「それぞれのヒーローの信念」を描く今作品で幕を開けます。「インフィニティ・ウォー」を描く前に、まずはヒーローの在り方というものについてしっかり考えなければならない、そういう意味での「内戦」なんだと思います。つまりこの作品は、ヒーロー同士を争わせることで、今一度MCUでの「ヒーロー」というものについて考えてみましょう、という作品なわけです。
ヒーローも完全ではない
この作品に、「全知全能の神」みたいなものは登場しません。ヒーローといえども、人間である訳で、従ってそこに完全性は存在しません。誰もが欠点を持ち、誰もが間違えます。
すると、どうなるか。「争い」が生じるわけです。
トニー(アイアンマン)は武器商人であった頃の失敗や、平和を願うあまりにウルトロンという悪を誕生させてしまった苦い経験から、強大な力を持つ者の責任というものを常に考えるようになります。世界の平和が守られる裏で、大勢の罪なき者たちが犠牲になるという悲惨な現状を打破すべく、「強大な力」の権化であるアベンジャーズを政府の管理下に置くことに賛成します。
一方、スティーブ(キャプテン・アメリカ)はそれを「責任逃れ」だと非難します。政府に責任を押し付けてはいけない。それは、過去に組織や政府といったものに幾度と無く裏切られてきたスティーブの説得力ある意見でした。いくら守ろうと思っても、そこには限界がある。結局、自分が信じる善を貫き、たとえ犠牲が生じようと、守れる者を片っ端から守るしか無いというわけです。
この二人が意見を違えてしまう根本的な理由は何でしょうか。赤と青、現代の天才発明家と過去の兵士、プレイボーイと真面目な愛国主義者......。これまでの作品で、トニーとスティーブはある意味対極的な存在として描かれてきましたが、その最も根本的な違いは、「人間性」です。
トニーはどちらかと言えば感情的な性格で、皮肉屋を演じて弱いメンタルを隠さなければ精神崩壊してしまう臆病さを持っています。言わば、自らの不完全性を知っているのです。それが彼の強みであり、弱みでもあります。
それに対し、スティーブは高潔な精神を持った愛国主義者で、自身の考える善に絶対的な自信を持っています。彼の行動原理は「平和を守ること」であり、これを脅かす一切の不正を許しません。それが彼の強みであり、弱みでもあるわけです。
トニーはソコヴィア協定書にサインするようスティーブに促し、世間の非難を浴びるワンダ(スカーレットウィッチ)の身を案じて彼女を安全な場所に避難させますが、スティーブはこの申し出を突っぱね、トニーのやっていることは軟禁だと非難します。トニーからみれば、スティーブは自分勝手で傲慢でしょうし、スティーブからみれば、トニーは臆病で無責任なわけです。肝心なのは、これはどちらが悪いとか、良いとかいう問題では無いということです。繰り返しになりますが、彼らが意見を違えてしまうのは仕方のないことなのです。なぜなら、「人間性」を異にしているから。もっと言えば、「違う人間だから」。人はそれぞれ違う環境で育ち、違う人生を歩み、違う価値観を身につけてゆきます。これは当然のことで、誰が良いとか悪いとかはなく、人間である以上誰しも完璧ではありません。ただ「違う」という事実があるのみです。大事なのは、価値観の違う「他人」と出会ったときにどうすべきか、不完全な者同士がお互いを補完し合えるかどうかでしょう。このある種当たり前な事実を、我々はこの作品で衝突するヒーローたちを見ることで、再確認するわけです。
善悪のない戦い
トニーとスティーブの対立を加速させるのがバッキー(ウィンター・ソルジャー)です。今作品では、彼が登場することによって、トニーとスティーブの思想の違いというものを浮き彫りにすることに成功しています。
トニーの行動原理は一貫しています。「面倒を起こしたくない」、ただそれだけです。スカーレットウィッチを軟禁したのも「面倒を起こしたくない」から。バッキーが無実だと主張するスティーブに耳を貸せなかったのも、「面倒を起こしたくない」という気持ちが優先してしまったから。つまり、彼の行動の底にあるのは行き過ぎた慎重さなのです。
一方、スティーブはむしろ面倒を起こすタイプです。彼は基本的に組織というものを信用しておらず、自分の信頼した仲間を第一に考えます。それが彼の考える正義なわけです。今回、彼は国連やアベンジャーズの仲間よりも、友人であるバッキーただ一人を優先させます。その行動は、結局「自分が信じる善を貫き、たとえ犠牲が生じようと、守れる者を片っ端から守るしか無い」という思想に収斂します。このような思想が彼を突き動かしていることは、ペギーの葬式のシーンからもよく分かります。スティーブが最も愛した女性の遺した言葉は「たとえ世界中があなたに『どけ』と言っても、あなたは妥協せず彼らに『どけ』と言い返しなさい」というものだったのです。
そして、スティーブは「不正」を許せない人間です。裏に真犯人がいるのに、無実のバッキーが責められるという「不正」が許せないし、お門違いの復讐心を抱くトニーの「不正」を許せません。結果として、彼は他人への共感能力に欠けます。ここに我々が今作品でトニーにもスティーブにも共感できるトリックが隠されています。つまり、スティーブはあまりに正しすぎるわけです。そして、怒りに任せてバッキーに殴りかかる人間臭いトニーを、我々は十分理解できるわけです。このため、親殺しの真相に愕然とするトニーに、「過去は消せない」と言い放つスティーブは、正しいのに冷酷で嫌なやつに見えるという不思議な事がおきます。人間というものは、どうしても理論では片付きません。そこには私的な思いや、感情という不安定要素があるため、スティーブのように100%理性で行動できないのです。そのために人間には「共感」「同情」という能力が備わっているはずなのですが、高潔な聖人であるスティーブに、その能力は備わっていない(必要ないといったほうが正しい)のです。だから、ワカンダでの犠牲者に胸を痛めるワンダに対し、犠牲はつきものだと非情なまでに冷静に言い放つことができるのです。「確かに理論的には正しいのかもしれないけど、そういうことじゃねえだろ!」と思ってしまいます。実際は、トニーのように慎重で感情的な部分も、スティーブのように自信にあふれ理性的な部分も、どちらも人間として大切なものです。従って、どちらが正しいようにも、間違っているようにも描かれていません。この構造が、今回の戦いを善悪のないものにしているわけです。
何が正しいのか
この映画のキャッチコピーの一つに、こんなものがあります。「Whose Side Are You On?(君はどっちの味方につく?)」この映画を見終わった後、私はこれがいかに挑発的なキャッチコピーであったかを痛感しました。前述のとおり、この映画で描かれる対立に善悪はなく、脚本自体も最後までどちらが正しいのか判断させない、二転三転する作りになっています。つまり、このキャッチコピーは、我々に「どちらが正しいのかを見極めろ」と言っているようで、実際の意味は全く逆なのです。我々はまんまとこのキャッチコピーにのせられて、「よーし、どっちの陣営が正しいのか見極めてやろう」と意気込むわけですが、結局その試みは失敗に終わらざるを得ません。そのとき、再びこのキャッチコピーを目にすると、まるで、「君は結局どっちの味方にもつけなかっただろう。争いというものはこういうものなんだよ」と言っているかのように思えてなりません。「正義の反対はもう一つの正義」とはよく言ったもので、実際の現実の社会で起こる戦争や闘争でも、明確な悪というものが存在しない場合のほうが多いのです。このいわゆる戦争の発生原理を、模式的にヒーロー同士の対立の中で示すことによって、非常に説得性・現実性のあるストーリーになっています。
2.これからのアベンジャーズの方向性
間違えたら謝ること
結局人間は間違える生き物なのですが、一番大事なのは間違えた後どうするかです。答えはものすごくシンプルで、「間違えたら謝ること」です。終盤でトニーは自分の間違いに気づき、サム(ファルコン)やスティーブに謝罪します。スティーブも大きな失態を犯します。彼がトニーの親殺しの真相を黙っていたことで、最終的にそれを利用されることになってしまったのです。このことに関して、彼もまたトニーへの手紙で弁明し、謝罪します。「間違えたら謝る」というのは、簡明でありながらなかなかできることではありません。この作品は、それをしやすくするために「内戦」という形をとっているわけです。映画ではトニーとスティーブの対立がメインに描かれますが、対立しながらも二人は互いのことを友達だと思っているのであって、同じアベンジャーズの仲間だと信じているのです。実際、トニーは一人の友人としてキャプテンを助けに行くようサムに諭されたときに「もちろんだ」と答えていますし、スティーブも最後の手紙の中でトニーを仲間だと言っています。ここに絶望と希望が共存します。すなわち、「どんなに親しい仲でも、違う人間である以上対立は免れ得ない」という絶望と、「最後には友人として分かり合えるであろう」という希望です。実際、最終的にトニーはアベンジャーズタワーに戻り、スティーブは必要なときには呼べと手紙に携帯を同封します。ここにインフィニティ・ウォーへとつながる希望が見出だせるのです。現実的な戦争では、絶望はあっても希望はないことが多いでしょう。それは内戦ではなく言わば「外戦」だからです。ヒーローの内戦でも分かり合うことは困難です。ましてや一般の人間の「外戦」における和解がいかに難しいかは想像に難くないでしょう。
内戦の決着
善悪のない内戦に、この作品はどのような結末を与えたか。それは、「それぞれの信じる道を進む」というものでした。ソコヴィア協定がどうなったかは曖昧になり、終盤はむしろトニーの復讐というパーソナルな問題を巡って対立が生じます。つまり、最終決戦にはアベンジャーズの方向性云々の大義名分はなく、単純な喧嘩が始まるわけです。私的な喧嘩で分裂をしたところで映画を終わらせたのはなぜでしょうか。それは、違う人間であることに由来する人間性の違いを超えて、トニーとスティーブが和解する流れを強調するためでしょう。「人間性の違いによる争い」というものを効果的に描き出すためには、ソコヴィア協定に関する議論などといった、口論だけで終わりそうな地味な題材(もちろん内容は極めて重要ですが、映画的には地味です)では不十分なので、この作品は中盤からいわゆる論点ずらしを行います。ソコヴィア協定を巡る話だったはずが、ジモの(フェイクの)陰謀を止める話になり、最終的にトニーの復讐を巡る話になります。トニーとスティーブは終始対立していますが、その論点は巧妙にずれていくのです。これには作為的なものを感じざるを得ません。結果として、最後は復讐心vs友情という非常にエモーショナルな問題に着地しました。負の感情を制御できなくなった人間というものにはやはり凄みがあるからです。ジモは帝国すなわちアベンジャーズを崩壊させたいという復讐心を持っていたからこそ、どうすれば争いというものを引き起こせるかを熟知していたのでしょう。実際、トニーは復讐の鬼と化し、まんまとジモの策略にはまってしまいました。『シビルウォー』は、ソコヴィア協定を巡る物語から、復讐心の呪いを巡る物語へと転換します(ただし、人間性の違いによって争いが生まれるというテーマは一貫しています)。今作品では、一応ティ・チャラ(ブラックパンサー)が自身の復讐心とともに復讐の連鎖を断ち切ることで、ジモに制裁を与えることになっていますが、真に復讐の連鎖が断ち切られ、ジモが制裁を与えられるのは、トニーがその復讐心を乗り越え、スティーブと和解した時でしょう。その時こそが、「人間性の違い」を克服する瞬間になるはずです。スティーブの手紙に同封された携帯電話は、その瞬間が訪れるかもしれないという希望を暗喩するものでしょう。つまり、「それぞれの道を進む」と言っておきながら、スティーブは大切な仲間であるトニーが再び自分とともに戦ってくれることを望み、信じているわけです。こう考えて、私は『アベンジャーズ(2012)』のラストシーンを思い出しました。「アベンジャーズ」という集団は、世界の平和が脅かされ、求める声があるときには、バラバラになっても再び集まり駆けつけてくれる、なにか善悪を超越した存在なのではないかと思えるのです。
3.新キャラの登場
新キャラをただの新キャラで終わらせない
本作品は、ただでさえかなり詰め込んだ内容であるにもかかわらず、新キャラが二人も登場します。すなわち、ブラックパンサーとスパイダーマンです。そして驚くべきことに、彼らはただの顔見せで終わるわけではなく、映画内でちゃんとスポットを当てられます(スパイダーマンに関しては微妙ですが)。ブラックパンサーは物語のキーパーソンであり、形式上トニー陣営に属しているものの、彼は父親の仇であるウィンター・ソルジャーに復讐することを目的としており、ソコヴィア協定の賛否にはは絡んできません。ある意味どちらの陣営にも属していないのです。結局、彼は作中で復讐心を持つ者のうち、ただ一人復讐心を克服することに成功します。ジモやトニーへのアンチテーゼになっているわけです。新キャラにここまでの役割を担わせることに驚きましたし、ただ「新キャラを出したいから出した感」がなく、物語における必然性が感じられたので素晴らしかったです。
ちょっと可哀想なスパイディ
一方で、もう一人の新キャラであるスパイダーマンは、ブラックパンサーほどの役割を与えられたかというと、肯定することはできないでしょう。まず、尺の都合上、彼が何のために戦うのかということについての描写がなされません。はっきり言って、「お前はトニーより先にスティーブがスカウトに来てたら、そっち側についたんじゃねえの?」と思ってしまいます。アクションではウィンター・ソルジャーのパンチを片手で軽々受け止めるなど、ちゃんと強さが描かれ、キャプテンと戦うシーンではまだ青さが抜けない部分が描かれるなど、キャラもよく立っていたのですが、ブラックパンサーほど物語に登場する必然性はなかったように思えて残念です。最後もアイアンマンに「お前は家に帰れ」と言われておしまいでしたし、臨時の助っ人程度の扱いしか受けてなかったのが可哀想でした。まぁ詳しくは『ホームカミング』を見てくれということなのでしょう。
4.(新キャラを含む)スーパーヒーロー一人ひとりのドラマとアクション
どうしてもトニーとスティーブの関係が取り上げられがちになりますが、この二人以外のドラマも重厚に描かれているのが驚きです。ワンダとヴィジョンはお互いを信じ合うとは何かという葛藤が描かれ、クリント(ホークアイ)は『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン(2015)』のときのように、再びワンダの背中を押す役割を果たします。ナターシャ(ブラック・ウィドウ)も自身の考える正義の中で揺れ動き、サムはスティーブの良き理解者として描かれています。ここまで来たら、スコット(アントマン)にも何かしらの信念や思想といったものを示して欲しかったのですが、まだアベンジャーズ色に染まっていない新人キャラとして個性を発揮していました。結果として、誰も脇役になっておらず、どのキャラを見に来る人にとっても楽しめ、またあるキャラ目当てで映画を見に来た人が、他のキャラに興味を持つということも起こりやすい映画になっています。もちろん全てののキャラが好きなマーベルファンにとっては歴史に残る映画になったことでしょう。
5.これまでのMCU作品との連携
1.や2.で書いたように、この作品はただのヒーローモノではなく、丁寧な心理描写と重いテーマを含み、単体映画としても優れたものになっています。しかし、物語の背景や細かい部分は、これまでのMCU作品の流れを見事に汲んでおり、続き物としても一級品になっていると思います。例えば、トニーやスティーブがなぜソコヴィア協定に賛成/反対するのかという背景には、今までのMCU作品での出来事が大きく関係していますし、スティーブがバッキーを命がけで救おうとするのも、これまでの作品を観ていると理解できます(逆に観ていないと理解し難いかもしれません)。そもそもソコヴィア協定という話が出てきたのも、『アベンジャーズ(2012)』や『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン(2015)』での影響が深く関係していますし、ワンダとクリントの関係も以前の作品を観ていると自然です。この他にもいくつも過去のMCU作品を意識した部分(例えばトニーがナターシャにハルクから連絡が来ているか聞くシーンなど)が見て取れ、非常に丁寧に練られた脚本であると感じられるはずです。
6.数々のファンサービスシーン
パンフレット読むと分かりますが、スタッフはMCU作品をとても愛しています。ホークアイとアントマンのコンビアタックは原作オマージュですし、他にも様々なヒーローがコンビネーションを見せたり、戦ったりして、まさにこれまでMCU作品を追いかけたファンや、原作ファンは狂喜する映画です。軽口を言いながら陽気に戦うスパイダーマンは、まさしく我々のよく知るスパイダーマン像ですし、今回はじめて巨大化するアントマンも、原作通りとはいえまさか今作品でその姿が見られるとは思わなかったでしょう。やはり『アベンジャーズ(2012)』を大ヒットさせただけあって、ファンのツボを押さえる腕は流石だなと思いました。
残念だったところ
・対立の論点がずれてしまっている
・ソコヴィア協定についての決着がついていない
・ナターシャなど、その後がどうなったのか不明なキャラが多い
・キャプテンが「あまりに」独善的なように感じる
・ご都合主義が多い(1年で壮大な計画を1人で成功させたジモ、スパイダーマンの正体をいつの間にか見破っていたトニー、バッキーの居場所をすぐに突き止めたスティーブ、軽々とジモに侵入されてしまう国連、超人血清という危険なシロモノを乗用車で運んでしまうハワード夫妻...などなど)
・ホークアイが軽いノリで戦線復帰したように感じる
・若いトニーの声が藤原啓治のまま
・スパイダーマンの扱い
・アントマンが戦う理由が薄い
・トニーが「両親の仇だ」ではなく、「母の仇だ」と言ったこと
キャプテンの盾について
最後のシーンで、キャプテンはトニーに「お前に父の作った盾を持つ資格はない」と言われ、自身のトレードマークである盾をトニーの前に置いていきます。そして、絶対に傷つくことのなかったその盾には、ブラックパンサーによる引っ掻き傷がついていました。このシーンは何を意味するのでしょうか。
それは、「もはやキャプテンはアメリカの敵になってしまった」ということではないでしょうか。愛国主義者としてアメリカに尽くし、自由と平和を愛する精神の体現者だったキャプテンは、だんだんと国や組織というものを疑い始め、「本当の正義は自身の信頼する仲間とのみ達成しうる」ということを学びます。今作品ではその思想を一直線に突き進んだ結果、国に追われる身となり、トニーとの関係に亀裂が生じてしまいました。彼は国や組織のコマではなく、もっと大きなもののために戦うことを決意し、かつてのアイデンティティの一部であった盾を捨てるわけです。
以上のように、内容は盛りだくさんで楽しい映画なのですが、その決着のさせ方にモヤモヤする方も多いかもしれません。個人的にはこれからのアベンジャーズの方向性がもう少し見えるような終わり方にして欲しかったし、ソコヴィア協定への明確な答えを提示して欲しかったのですが、それはこれからのMCU作品でフォローされることを願います。
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