『スーサイド・スクワッド』は、どうすれば面白くなったか【ネタバレ】

今回の記事タイトルはかなり挑戦的です。

しかし、この記事のタイトルはこれ以外ありえませんでした。というのも、この記事は単に『スーサイド・スクワッド』の感想記事ではなく、「作品の面白さ」という普遍的なことについての私の意見を述べたものだからです。


まずこの作品のテーマであるのは、「善悪とは何か」ということです。

作品のテイストに反して高尚なテーマに聞こえますが、要は「こいつ実は良い奴じゃん!」「こいつサイテーだな!」という観客の反応を狙った作品なのです。実際、この映画を見終わったあと、タスク・フォースXの面々について第一に思うのは、「あいつらそこまで悪人でもなかったな」というようなことでしょう。そういった主旨の感想を観客に言わせるための映画なわけです。

しかしながら、問題なのは観客がそれについて「肩透かしを食った」と感じてしまう可能性が高い作りになっていることです。実際、そういった感想は散見されます。つまり、表現方法が上手くないので、作品が志向したものそれ自体が作品をつまらなくしている、ということになっているのです。以下では、この問題点について詳しく考えていきます。

あらかじめ申しておきますと、作品の解釈の上で参考にするのは予告編のみで、アメコミの原作などは持ち出しません。ご容赦下さい。



〈あらすじ〉

世界崩壊の危機が到来。政府は、最強のスナイパーであるデッドショット(ウィル・スミス)や、ジョーカー(ジャレッド・レトー)に夢中のハーレイ・クイン(マーゴット・ロビー)ら、服役中の悪党たちによる特殊部隊“スーサイド・スクワッド”を結成する。命令に背いた者、任務に失敗した者には、自爆装置が作動するという状況で、寄せ集めの悪党たちが戦いに挑む。(引用元)



■「善悪判断を揺るがす」というテーマ

まずは予告編を一つ観てみましょう。

全編を通して強調されるのは、メンバーが「どうしようもない悪人」であるということです。そんな奴らを、政府がなんとかコントロールして悪を討つというハチャメチャ映画。そういう作品であるということを第一に伝えようとしています。これにより、観客は「悪人が活躍する斬新な作品」として映画を観に行こうという気になります。

しかし、蓋を開けてみると、メンバーに想像していたような悪人はいません。デッドショットに関してははのっけから親子ドラマが描写されますし、ハーレイクインも元は精神科医であり、恋の犠牲者でした。ディアブロは能力を制御できず家族を殺めてしまった悲しい過去を持ちます。そういった描写のなされない他のメンバーも、最後には嫌々ではなく連携して敵を倒そうとします。

極めつけは、エンチャントレスが見せた幻覚です。あれにより、「そもそもこいつらは普通の生活を望んでいて、人生のどこかでその歯車が狂ってしまった犠牲者たちなのだ」という認識をさせようとしています。ハーレイクインの「世界は私たちに何かしてくれた?」というセリフは、そういった犠牲者の悲痛な叫びとして聞こえてきます。

一方で、政府側は内に秘めた邪悪さをこれでもかと見せつけます。アマンダの異常なまでの冷酷さ、ミッションはただの尻拭い、デッドショットの「どっちが悪人だ!」というセリフ......。首に仕掛けられた爆弾も、はじめは猛犬につける首輪程度にしか感じさせないが、物語が進むにつれ残酷な手段としての側面が強調される......という効果を狙ってのものでしょう。

このように、観客の善悪判断を揺るがそうとする狙いがひしひしと伝わってきます。それはもうあざといくらいに。「ホラ、予告編から期待したような奴らじゃないでしょ?」という制作側の声が聞こえてくるようです。この「あざとさ」が問題なのです。

観客の予想を裏切ろうとするとき、そこに「あざとさ」を感じさせてはオシマイです。ただでさえ観客が予告編から期待したものと違うものを見せるのですから、観客にそれを納得させないと顰蹙を買うのは当たり前です。例えば、タスク・フォースXのメンバーについては、観客に「こいつ実は良い奴じゃん!」と思わせなければならないところを、「あいつらそこまで悪人でもなかったな」と思わせてしまうのです。同じ感想のようで、その差は極めて大きなものです。なぜこういうことになるかというと、それはひとえに「納得のさせ方」が甘いからなのです。


■「甘さ」

どんなところに甘さがあるか、具体的に挙げると以下のようになります。


①構成の甘さ

観客の善悪判断を揺るがすならば、最初は予告編の印象を引きずらせて、徐々にその実態が見えてくるという構成にすべきです。つまり、映画のはじめの方では、観客はメンバーを「悪」、政府(アマンダ)を「善」と認識しなければいけません。実際、冒頭は政府(アマンダ)がメンバーの「悪さ」を紹介してゆくという形になっていて、バイアスの掛かった視点というものを予告編から引き継がせようとしています。

しかしながら、その法則にそぐわない構成になっている部分がいくつかあります。たとえば、デッドショットに関する親子ドラマは、はじめから見せるべきではないでしょう。むしろ金の為に動く殺し屋という側面のみを徹底的に語らせ、カッコ付きの「悪」を植え付けなければなりません。いわゆる「悪っぽさ」を印象付ける必要があるのです。

一方、アマンダについてはその逆で、「善っぽさ」を見せなければならないのですが、フラッグとムーン博士を計画的に恋人にさせたり、エンチャントレスをこき使っていたりと、はじめからいけ好かなさMAXです。今回の騒動の発端が政府側にあることも観客は最初から知ってしまっているので、酒場でのフラッグの告白も「知ってたよ」くらいにしか思いません。

例えば、最初はエンチャントレスもタスク・フォースXの一員として機能していたが、アマンダが彼女の弟を何らかの形でヴィランにしてしまい、騒動が発生。酒場のシーンではじめて全ての真相が語られ、エンチャントレスは弟側につく......などという流れにすれば、「揺るがす」効果はあったでしょうし、仲間と戦うことによるドラマや、展開の面白さも期待できました。

②描写の甘さ

この映画で一番グッとこないといけないシーンの一つは、ハーレイクインが「仲間をイジメるな!」と言ってエンチャントレスの心臓を奪うシーンです。あのハーレイクインが、最愛のジョーカーよりも仲間を選んだというところに感動があるのですが、やはりそこまでの積み立てが上手くいっていないために、あまり機能していません。

スーパーヒーローは世界を守る正義の味方として敵を倒します。いわゆる公的な動機です。一方、タスク・フォースXのメンバーにとっては、世界などどうでもよく、ハーレイクインのセリフも示す通りむしろ憎んでさえいるのですが、「仲間」を傷つけられたくないという私的な動機から目の前の敵を倒します。動機に差こそあれ、結果としては同じことをしているという奇妙さにより、ここでも観客の善悪判断は揺るがされるはずです。

要は、一見どうしようもない悪人であるような奴らも、「仲間」を意識することだってある、というところに力点を置かなければならないのです。実際、監督も「彼らは一匹狼ばかりで、チームとして動くこと、"ファミリー"になることを学ばなければならない。それこそが、この映画の核心なんだよ。」と語っています(映画パンフレットより)。

逆に言えば、例のハーレイクインのシーンや、デッドショットがわざとハーレイクインを撃たなかったシーンで、ちょっとでも観客に「なんで?」と思われてしまったら台無しなのです。もっと丁寧に、もっと愚直に、彼らがお互いを「仲間」だと意識するまでのプロセスを描写して欲しかったものです。そうすれば、もっと話としてグッとくるものになったでしょう。

③イベントの甘さ

この映画は、かなり目的先行的な匂いがします。「観客の善悪判断を揺るがしたい」「そのために悪党がヒーローみたいな活躍をしてしまうおかしさを描きたい」「そのために政府側を悪くしたい」「そのためにメンバーにも感情移入の余地を与えたい」というような、「〜したい」という目的のために話が作られている感じを隠せていないのです。それは前述の構成の甘さ、描写の甘さにもみられますが、イベントの甘さにもよく現れています。

基本的に、ストーリーは「メンバー集め→事件発生→解決」以外のなにものでもなく、至極単純です。大筋が単純ならば、発生するイベントを工夫するしかありません。例えば中盤、はじめてタスク・フォースXとして雑魚敵と戦うイベントは、最後の対エンチャントレス戦と対比構造になるものとして描くのが定石です。すなわち、対雑魚敵戦ではメンバー各々が好き勝手に暴れ回り、能力紹介も兼ねて、彼らの「非ヒーローらしさ」「一匹狼っぷり」といったものを強調する一方で、対エンチャントレス戦ではその真逆の戦い方をみせるのです。こうすれば、アクションが面白くなるのは言うまでもなく、ハチャメチャ映画としての面白さが際立ちますし、さらにアベンジャーズ的な面白さも保証できるので、目的先行的な匂いを隠すことが出来ます。

しかしながら、この映画はそういう面白さを見せてくれません。全体的にはっちゃけっぷりが足りませんし、対雑魚敵戦では殴り合い、撃ち合いをしているだけです。アクションシーンは全て夜に行われるので、ただでさえ映りが悪いのに、あんなに単純なアクションでは「そもそも何をやってるのかわからない」と言われてもしょうがないでしょう。

対エンチャントレス戦はどうだったかというと、確かに皆でボスを倒そうという熱は伝わってきますし、ディアブロの死でその熱は増大するわけですが、やはり力を合わせて戦うというより、各々が敵に無茶苦茶に殴りかかっているようにしか見えません。そもそもディアブロ以外のメンバーの能力がショボいというのもありますが、それならばなおのことアクションは工夫すべきだったでしょう。例えば、ハーレイクインが無茶苦茶にバットを振り回す影からデッドショットが百発百中の狙撃で援護する、というような工夫です。そこで「仲間」という意識の芽生えを描くこともできたでしょう。

メンバーが自身の能力をチームのために活かす、という描写がされていないのです。キラークロックには、爆弾を運ばせるという役割がありましたが、一度「必要ない」と断られています。あそこで断るくらいなら、何のためにキラークロックをメンバーにしたのでしょうか。そういう細かいところにも甘さがあります。


■テーマを考えることもムダじゃない

今回の記事では、「作品が志向したものそれ自体が作品をつまらなくしている」という問題のみをただひたすら考察しました。すなわち、この作品が一番に「志向したもの」とはそもそもなんだったのか(それは観客の善悪判断を揺るがすことでしたが)をまず考え、それを最大限効果的に伝えるにはどうすればよかったのかを考えたわけです。従って、よく言われる「展開がつまらない」だとか「グッとくるシーンがない」だとか「アクションが面白くない」だとかいうエンタメ的な観点から見出だせる問題には触れないはずの記事でした。

しかしながら、ご覧の通り、結果としてエンタメ的な面白さにも繋がるような指摘をするに至る部分が多くありました。如何によくテーマを描くかを考えていたはずが、いつの間にか「こうすれば展開が面白くなった」「こうすればグッときた」「こうすればアクションが面白くなった」といった結論に落ち着いたわけです。

このことは、かなり重要な事実を示唆しています。それは、作品のテーマと作品の面白さには、密接な関係があるということです。

いちいち「この作品のテーマは何か、メッセージは何か」などと考えるなんてバカらしい、という言説を、よく目にします。しかし、なんのモチベーションもなく作品が作られるということは、まずないでしょう。「善悪とは何か」なんて高尚(に聞こえるよう)なテーマでなくとも、「この世界設定でこういうことをしたら面白そう」だとか「こういう設定でブッ飛んだことをすれば新しいだろう」というような意図はあるはずなのです。そういった動機も作品の立派なメッセージであり、テーマだと思います。

そのように「作品のテーマ」というものを定義するならば、それが作品の面白さに強く関与しているのは、考えてみれば当たり前です。なぜならば、制作者が「こうすれば面白い」と思った動機こそが、その作品のテーマだからです。

『スーサイド・スクワッド』は「悪党が悪を討つストーリーによって、観客の善悪判断を崩せたら面白い」という動機によって作られたものだと私は思いました。私はそれを、この作品のテーマだと考えたわけです。如何にも制作者の意図を断定しているように聞こえるかもしれませんが、もちろん私の勝手な解釈です。

しかしながら、観客が各々の解釈によってその作品のテーマを考えることは、決してムダなことではないと考えます。ある作品を「ブッ飛んで面白かった」とするならば、それは立派な作品解釈です。なぜならば、それはすなわちその作品のテーマが「ブッ飛んだ面白さ」であると解釈したことと同義だからです。

そう考えると、「この作品のテーマは〜である」というような解釈は、「この作品は〜だから面白い」と言っているに過ぎないのかもしれません。そういう訳で、私は「作品のテーマを考えることは、作品の面白さを考えることなのだ」と信じているのです。



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