映画『夜は短し歩けよ乙女』感想 〜歩き続けろ夜が明けるまで【ネタバレ】

映画『夜は短し歩けよ乙女』は森見登美彦氏による同名小説をアニメ映画化したものです。

実は私はこの原作小説を読んでおらず、予告編を観て「先輩が乙女を追っかける青春物語なのかな―」程度の認識で映画館に足を運びました。内容よりも、湯浅監督によるケレン味溢れるアニメーション表現のほうを堪能する気持ちでいたのですが……。

ご覧の通り、映像だけでなく内容にも打ちのめされてしまいました。

確かに大学生の主人公が若さに悶えながら一歩を踏み出す、という意味では青春物語なのですが、この作品は明らかにそれ以上のメッセージを含んでいます。というのもこの作品、「青春」だけに閉じたものではないんです。むしろ本作には色んな世代の人が登場しており、主人公の「若さ」はそれらと同列で、連続するのものとして扱われているのです。ここにこの物語の普遍性があります。

何を熱く語ってるんだと思われるかもしれませんが、それも仕方ありません。というのもこの映画、展開がキテレツな割にテンポは速く、そこに更に湯浅監督のセンスが光る変幻自在のアニメーションが加わっているので、何が何やら分からぬまま置いてけぼりをくらう可能性が高い作りになっているのです。特に終盤の展開はそれが何のメタファーであるのか、何を意味しているのかが少々分かりづらく、どこに話のポイントがあるのかが判然としないかもしれません。

とはいえ、本作が見た目の割にマジメなことを語っているのも事実であるように思えます。エンドロールに入り主題歌が流れたあの瞬間、少なくとも私には確かに響くものがあったのです。

というわけで、今回の記事では本作の根底にある「マジメな部分」、すなわち私に響いたものは何だったのかということについて書いていきたいと思います。



〈あらすじ〉

クラブの後輩である“黒髪の乙女”に恋心を抱く“先輩”は、「なるべく彼女の目に留まる」略してナカメ作戦を実行する。春の先斗町に夏の古本市、秋の学園祭と彼女の姿を追い求めるが、季節はどんどん過ぎていくのに外堀を埋めるばかりで進展させられない。さらに彼は、仲間たちによる珍事件に巻き込まれ……。(引用元)



〈感想〉

※以下ネタバレ注意


■奇妙な一夜

この作品の基本的な構成は非常にシンプルです。舞台設定は京都の夜。それはただの夜ではなく、時間も空間も変幻自在で、数々の珍事件が巻き起こるいわば「異世界」的な夜として描かれています。主人公である先輩と黒髪の乙女はこの一夜限りの異世界に迷い込み、そして再び現実に帰ってくる……。要は『不思議の国のアリス』や『千と千尋の神隠し』のような、「行って帰ってくる異世界モノ」の系譜なわけです。

さて、異世界モノのセオリーとして、「異世界へ行く前と帰ってきた後では、キャラクターに何らかの変化がある」というものがあります。本作の場合、先輩と黒髪の乙女が京都の一夜を経験することで、人間的に何らかの変化を遂げるということになります。

ここまで演繹的に考えてきましたが、話を思い返してみると確かにセオリー通りの運びになっている気がします。

本作は春夏秋冬のそれぞれに対応した騒動が連続して一夜に巻き起こるという流れになっていて、またその騒動の一つ一つは独立しているように思えます。つまり、一つの騒動が解決すると季節と場所を変えて次の騒動が発生し、そしてまた次の騒動へ……という風に、一見すると単なる小エピソードの集合であるように思えるのです(実際、原作では4章立ての構造になっています)。

しかし、物語を俯瞰して眺めてみると、そのどれもが相互に関係しており、最終的には先輩と黒髪の乙女の関係に収斂していく構成になっています。京都の夜に起こったすべての出来事が、まるでふたりのために誂えられたもののように思えるのです。なんだか、キャラクターの変化を根本的な軸とする「異世界モノ」のイメージに近づいてきました。

こう考えると、本作もまた男女の物語を考える上で必要不可欠なある概念が深く関係しているように思われます。それは「運命」ということです。つまり、先輩と黒髪の乙女は結ばれる運命にあったのか、京都の一夜は全て運命的に仕組まれたものであったのか……ということを考えざるを得なくなるのです。


■「ご縁」の導き

本作のキーワードとして、「ご縁」というものがあります。これは黒髪の乙女が度々口にする言葉で、特に「こうして出逢えたのも、何かのご縁」というセリフは重要です。というのも、本作はこのセリフによって終幕するのであり、また本作のキャッチコピーにも用いられているからです。

「縁」という単語を辞書で引くと、次のような意味が出てきます。(『大辞泉』より)


人と人を結ぶ,人力を超えた不思議な力。巡り合わせ。「こうなったのも何かの―」「ご―があったら,また会いましょう」


この「人力を超えた不思議な力」「巡り合わせ」というのがポイントです。次に「運命」を辞書で引いてみましょう。


超自然的な力に支配されて,人の上に訪れるめぐりあわせ。天命によって定められた人の運。「すべて―のしからしめるところ」「これも―とあきらめる」


ここでも、「超自然的な力」「めぐりあわせ」という表現が出てきました。つまり、「縁」も「運命」も、「あなたと私が出逢ったことには何か意味があるはずだ」という考えに根ざした概念なのです。

実際、黒髪の乙女の行動原理はそこにあります。彼女は何にでも興味を持ち、積極的に人と関わろうとすることで数々の珍事件に巻き込まれてしまうのですが、その根本には「何か意味があるはずだ」という思考があります。だからこそ、彼女は基本的に他人を受け入れます。自分に痴漢を働いた東堂も、古本市の神の願いも、偏屈王のヒロイン役も、全てを受け入れてしまうのです。

このような彼女の姿勢、すなわちご縁の導きに従い積極的に人と関わろうとする姿勢により、次第に彼女は「夜」の中心になっていきます。樋口曰く、彼女は「今宵の主役」なのです。


■主役になれない男

一方、もう一人の主人公である先輩は、黒髪の乙女とは対照的な存在です。

まず、彼の行動原理は常に「黒髪の乙女を射止める」ことです。つまり色んな人と関わろうとする黒髪の乙女とは反対に、彼は黒髪の乙女という一人の人間しか眼中にないわけです。

また、黒髪の乙女は自らも「ご縁の意図に導かれて」と言っているように、その場の成り行きに任せて行動しています。つまり運命というシナリオに従っているわけですが、一方で先輩はそのシナリオを自ら書こうとする人であるといえます。「断じて、私の思い描いている台本ではない!」というセリフは、このことをよく示しています。

さらに言えば、黒髪の乙女は本能の人、先輩は理性の人であるともいえます。例えば、黒髪の乙女がふと思い出した『ラ・タ・タ・タム』を目掛けてずんずん歩いて行く傍らで、学園祭事務局の情報をもとに打算的に『ラ・タ・タ・タム』を手に入れようとする先輩……などの構図にも、このことはよく表れています。特に、終盤における先輩の脳内会議は、先輩が理性の人であることのこの上ない証拠でしょう。

結果として、彼はどうしても夜の主役になれません。すでに夜の中心は黒髪の乙女であるのに対し、先輩はその中心を後から追いかけていく存在なのです。

このように考えると、「たまたま通りがかったもので」という彼の常套句は、運命というものに対する彼の姿勢を端的に表しているように思えます。「たまたま」と言って「人力を超えた不思議な力」を装いつつ、その実すべては自らが仕組んだものである……。まさに運命というシナリオを自ら書こうとする姿勢なのです。


■欠け合うふたり

このように、何もかもが対照的なふたりですが、これは裏を返せばお互いがお互いにないものを持っているということでもあります。

黒髪の乙女にあって先輩にないもの……それは「本能」です。これは言い換えれば「他者と繫がる勇気」ということになります。確かに、先輩は全編を通して黒髪の乙女を射止めようと奔走していました。しかし、最後の最後でその情熱は薄れかけてしまいます。「特に秀でた才能もない自分が好かれるはずもない」「そもそも黒髪の乙女への愛は真実の愛なのか」など、風邪の悪化とともに「理性」の部分が肥大化してしまう様子が描かれるのです。

一方で、その「理性」は先輩にあって黒髪の乙女にないものであると言えます。それは言うなれば「他者と繫がる意志」です。「自分の気持ちを捕まえることすら容易ではない」というセリフにある通り、彼女には先輩のような「明確にこの人と繋がりたい」という意志がないのです。そのため、彼女はいつも先輩の「たまたま通りがかったもので」という言葉を鵜呑みにしてしまいます。あの明らかな舞台ジャックでさえ「たまたま通りがかった」のだ、としてしまうほど重症です。それは兎にも角にも彼女に「意志をもって他者と繫がる」という考えがなく、従って先輩がなぜ自分の前に何度も現れるのか想像できないからなのです。

さて、このように互いに欠け合っているふたりは「夜」を通してどのような変化を遂げたのでしょう。実は、彼らは互いに欠けていたものを見事に補完していたのです。これがクライマックスのシーンに繋がります。

クライマックスで黒髪の乙女は先輩の脳内にある塔を登り、先輩を救いに行きます。これは言うまでもなく風邪の看病をしているということなのですが、しかしそれ以上の意味を含んでいることは明らかでしょう。黒髪の乙女は「たまたま通りがかったもので」の真意に気付き、そして自らも明確な意志をもって先輩のもとへ向かいます。そして先輩もそれに応えるように、勇気を振り絞って自らの心の塔から飛び降り、黒髪の乙女のもとへ飛び込もうとするのです。これは黒髪の乙女が「意志」を獲得し、先輩が「勇気」を獲得した瞬間であるといえます。


■「ご縁」のメカニズム

かくして第一歩を踏み出したふたりですが、ここで改めて原点に立ち返りましょう。それは、この作品における「ご縁(運命)」とは何だったのかということです。

結局、ふたりを結びつけたものは何だったのでしょうか。もちろん、直接的な原因として黒髪の乙女の「意志」や先輩の「勇気」はあります。しかし、忘れてはならないのは、その「意志」や「勇気」は様々な人との「ご縁」を通じて獲得されたものだということです。極端な話、この物語に黒髪の乙女と先輩のふたりしか登場しなかったら彼らが結ばれることはなかったでしょう。黒髪の乙女が先輩を看病する際、これまでにお見舞いをした人たちからもらった様々なアイテムを用いていたことがそれを示唆しています。これは「冬」に至るまでの「春夏秋」があってこその物語なのです。

例えば、黒髪の乙女が「ナカメ作戦」の真相に気付いたきっかけはいつどこにあったのでしょうか。恐らく、これは様々な要因が重なった結果なのでしょう。先輩が必死に『ラ・タ・タ・タム』を手に入れようとしていた事実を東堂さんから伝えられたこともそうですし、お見舞いで事務局長に「ナカメ作戦」をほのめかされたこともそうです。もとを正せばそれは李白が『ラ・タ・タ・タム』をコレクションしていたことにもよるし、そもそも『ラ・タ・タ・タム』を手に入れようとしたのは学園祭事務局の情報のおかげだし、またその前に黒髪の乙女も先輩も東堂さんと知り合う必要があり……などなど。このように、ふたりの「ご縁」の一部をとってみても、それはさらに多くの「ご縁」に支えられたものだということがわかります。もちろん、そもそも先輩が「ナカメ作戦」を実行しなければこの話は全て成り立たなくなります。

以上のことをまとめると次のようなことが言えます。「人と人のご縁とは、偶然性と必然性が複雑に関係しあって生まれるものである」と。つまり、黒髪の乙女が行き当たりばったりで様々な人と関わろうとすることによる「偶然性」も、先輩がなんとしても黒髪の乙女を射止めようと打算を重ねて奔走することによる「必然性」も、どちらも「ご縁」に含まれるということなのです。


こう考えると、偶然性の体現者であった黒髪の乙女と必然性の体現者であった先輩が最終的に結ばれる、という筋書きはなかなかに示唆的です。彼らが結ばれたことそれ自体が、「ご縁」というもののメカニズムを物語っているようだからです。「こうして出逢えたのも、何かのご縁」というセリフがここにきて効いてきます。


■夜は短し歩けよ乙女

ここまでで本作のキーワードであった「ご縁」の意味がだいたい判明したわけですが、実は本作を観て私に「響いた」ものというのは「ご縁」の意味そのものではありません。というのも、本作はただ淡々と「ご縁」のメカニズムを説明するものではなく、さらにそこに明確な思想があるのであって、私はここに共感してしまったのです。

本作のもう一つのキーワードは「時間」です。オープニングで数々の時計が描かれていたのは印象的だったと思いますが、最初に「時間」絡みのエピソードがあったのは春に黒髪の乙女一行が老人たちと酒を飲むシーンでした。ここでは、「年をとるほど時間が進むのが早くなる」ということが語られ、以降これは本作に一貫して流れる重要な思想になります。老人たちは残された時間が矢のように過ぎ去っていくのを憂鬱に感じていたわけですが、黒髪の乙女が披露した詭弁踊りを見て、彼らは自分たちの過去の行動が伝統として継承されていることを知り、元気を取り戻します。

黒髪の乙女が救った人物はもう一人いました。それが李白です。彼の部屋には無数の時計があり、そのどれもが高速に針を進めていました。これは李白が京都の街で一番孤独な人間であることを示しており、また李白風邪は孤独の感情をこじらせた症状であると言えます。そんな彼を救ったのは、「人はどんなに孤独でいようとしてもどこかで繋がってしまう」という言葉でした。李白の貸した金、飲んだ酒、集めた本、ひいた風邪……。そのどれもが人と人の「ご縁」に作用し、複雑怪奇な夜を形成していたのです。

ここで重要な事実が二つ示されています。まず、老人たちや李白は「他者との繋がり」を感じた、すなわち孤独を回避したことにより救われたということ。そしてもう一つは、黒髪の乙女は(もちろん無自覚的に)人と人を繋ぐ存在であるということです。「君といると夜が長くなるようだ」という樋口のセリフは、このようなことを一言で表現したものであるといえるでしょう。つまり、黒髪の乙女は人と人を繋げ、孤独を回避させることで時間を長くする存在なのです。

本作における「夜」は、そのまま「人生」と言い換えられます。人と関わり、繫がることで人生の時間は長くなっていく。より正確に言えば「体感時間」が長くなっていくのです。このように考えると、黒髪の乙女と先輩の恋はより深い意味を帯びてきます。李白が黒髪の乙女に「夜は短し歩けよ乙女!」と言ったあと、「命短し恋せよ乙女」という歌詞が流れるのが印象的ですが、つまり恋とは、人と人が繫がる究極形なのです。



■荒野を歩け

夜は短い。人生は矢のように過ぎ去る。それでも歩けよ! 恋せよ! 人は決して孤独ではないのだ。私には本作がそんなことを言っているように感じたのです。これがエンドロールで流れる主題歌の


  あっちへ ふらふら また

  ゆらゆらと歩むんだ

  どこまでも どこまでも


という歌詞と重なり、なんとも言えない感慨に浸ってしまったのです。

お酒、お金、古本に風邪……。この世は人と人を繋ぐもので溢れています。それは、あまりにも短い人生を与えられた我々にとっての大きな希望です。時間を超え、空間を超え、変幻自在に繫がる人の縁こそが夜を長くする。ならば、我々は確かな勇気と意志をもって、この夜を歩かなければなりません。どこまでも、どこまでも、歩いていくのです。

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