『LOGAN/ローガン』感想 〜虚構のヒーローを信じる意味【ネタバレ】

ヒュー・ジャックマン演じるウルヴァリン、およびパトリック・スチュワート演じるプロフェッサーXの最後の姿を描く映画『LOGAN/ローガン』。2000年に公開された『X-MEN』以来、彼らは実に17年もの間、ヒーローの役を演じ続けてきました。リアルタイムで追いかけてきた人々にとっては特に感慨深い作品です。彼らがどんな結末を迎えるのか、ファンにとっては非常に気になるところでした。

しかし蓋を開けてみると、この『LOGAN/ローガン』は今までのX-MENシリーズとは全く毛色の異なる作品でした。むしろ、今まで自分たちが演じてきた役を、ある意味否定する内容だったのです。それはヒーロー映画と呼ぶにはあまりにリアルで、痛々しく、哀しく、そして親しみ深いものでした。これは、今まで我々がずっと親しんできたはずの「ヒーロー」という概念を今一度問い直し、その意義を再確認する映画だったのです。 

本記事では、そんな本作が最も力を注いだと思われる「ヒーローの問い直し」について、そしてその問いに対するこの作品の答えについて、切実に書いていきたいと思います。



〈あらすじ〉

近未来では、ミュータントが絶滅の危機に直面していた。治癒能力を失いつつあるローガン(ヒュー・ジャックマン)に、チャールズ・エグゼビア(パトリック・スチュワート)は最後のミッションを託す。その内容は、ミュータントが生き残るための唯一の希望となる少女、ローラ(ダフネ・キーン)を守り抜くことだった。武装組織の襲撃を避けながら、車で荒野を突き進むローガンたちだったが……。(引用元)



〈感想〉

※以下、ネタバレ注意



 ■あまりにみすぼらしいヒーロー 

開始早々、この作品は我々に悲痛な現実を見せつけます。車から出てきたローガンの外見は老いていて、足も悪く、どこか生気がありません。そんな彼がまずしょうもないチンピラと闘うのですが、なんと銃で撃たれて地面に蹲ってしまうのです。今まで憧れてきたヒーローの、これ以上なくみっともない姿。そんな彼の姿が映る画面の右下から、スッと小さい「LOGAN」の文字が出てきます。もう私は苦笑しました。もちろん、ただ映画タイトルが出てきただけなのですが、しかしあのタイミング、あのレイアウトは狙っているとしか思えません。私には、あの文字はよくある人物紹介の字幕に見えたのです。「このみすぼらしい奴がローガンです。X-MENの主役だった奴です」と言っているように感じたのです。笑ってしまう辛さです。

このように、本作はまず「これまで積み上げてきた虚構の否定」というコンセプトを宣言してきます。そしてその後も一貫してこの姿勢が貫かれているのはいうまでもありません。

ずっと世界のために闘ってきたはずなのに、その世界はもはやディストピアと化しています。今までのヒーローとしての闘いが水泡に帰しているわけです。そんな世界で自殺することもできず、ただ屍のように生きているローガン。彼の唯一の目的は「太陽号」を買ってどこか遠く離れた海の上で生涯を終えること。つまり、これまで世界のために闘ってきたヒーローが、その世界から抜け出したがっているのです。アダマンチウム製の爪を血まみれの手で抜こうとするウルヴァリンの姿なんて、誰が想像したでしょうか。これは自身のアイデンティティの否定です。

他にも様々な面で、これまでのX-MEN映画が築き上げてきた「ウルヴァリン像」を否定する描写が出てくるのです。いや、それだけではありません。本作はもはや、これまでのX-MENシリーズ自体をも否定していると言っていいでしょう。人類とミュータントの共存は? X-MENチームのヒロイックな闘いは? 恵まれし子らの学園は? そんなものはどこにもありません。極め付けは、ローガンが「ミュータントが生まれたのは神の失敗だったのかも」と嘯くシーン。ここに、これまでシリーズが積み上げてきた「希望」が否定されるわけです。

X-MENシリーズの主人公も、描き続けたテーマも、一度すべて否定する本作。そう考えると、こんなに冷酷な作品はないと思うかもしれません。確かに、シリーズに思い入れがある人ほど、ウルヴァリンをホンモノのヒーローだと信じてきた人ほど、辛く悲しい物語となっています。しかし、そうやって一度観客を冷徹に突き放し、夢から覚ます行為は、実は必要なプロセスだったのです。   


■最後の希望

ローガンはとにかく自分を信じることができなくなっているため、極力人との交流を避けています。「自分を関わるとひどい目にあう」、「自分が愛した人は不幸になる」。それはシリーズを通してローガンが思い悩んでいたことでもあります。本作でもローガンの口からそういったセリフが語られますし、彼が毎晩見る「自分が人を傷付ける悪夢」はまさにそのことを示唆しているように思えます。

結局その思い込みから抜け出せなかった彼は、本作では人から助けを求められても無視するし、困っている人を見かけても「誰かが助けるだろう」と言って通り過ぎようとします。ドライバーの仕事をしている最中でさえ、客との交流は避けているのです。これも、「積み上げてきたものの否定」です。

そんな彼を変えるのがローラという少女でした。こんなに絶望的な状況にあって、たかが少女一人になにが変えられるのか。初めは観客もローガンも同じ思いを抱きます。しかし、物語を振り返ってみると、まさにこの少女の存在によって本作が、あるいはローガン自身が否定したあらゆるものが今一度肯定される、という構成になっていたのです。

ローラという少女のもっとも特筆すべき性格は、「虚構を純粋に信じている」ということです。この虚構というのがまさしく彼女の愛読書であるX-MENのコミックだったわけです。彼女はコミックで描かれているように、ノースダコタにエデンがあると信じています。それはX-MENというヒーローチームの活躍を信じているということでもあります。もちろん、ローガンはこれをお笑い種にします。ここに描かれていることはデタラメだ、ヒーローもエデンも存在しない。そう言って彼女のコミックを投げ捨てるのです。現に世界はこんなに荒廃している、現に俺は勇敢に悪と闘えるヒーローではない、「現実では人が死ぬ」。ローガンの目には、そういう「現実」しか映らなくなっているわけで、だからこそ虚構の無価値さを確信しているわけです。

このように、ローラとローガンの思想は真っ向から反しています。エデンはあるのか、ないのか。ヒーローはいるのか、いないのか。ローラは前者、ローガンは後者の立場をとっているわけです。この二人の相反する思想のぶつかり合いが、ゆくゆくは「虚構の意義とはなんなのか」という根幹のテーマを掘り下げていくことになります。


 ■獣か人か

「ウルヴァリン」はいわゆるヒーロー(ミュータント)としての通り名で、「ローガン」は兵士としての通り名です。いずれも彼の本名ではないわけですが、それは彼がずっと仮面を被ってきたということでもあります。「ウルヴァリン」という獣でもなく、かといって「ローガン」が彼の人間的本性であるかというとそうでもない。結局彼が「獣なのか、人間なのか」という問いは、『ウルヴァリン:X-MEN ZERO』から提起されてきたものです。そして前述の通り、本作に至っても彼は「ウルヴァリン」としても「ローガン」としても生きることができていないわけです。

作中に登場する『シェーン』という映画の「人殺しは元には戻れない」というセリフは、まさにそんな彼の心境を言い当てたものであると言えるでしょう。ヒーローや獣というのは、彼にしてみれば「人殺し」なのです。それはもう元(=人間)には戻れない存在なのです。獣にはなりたくない。かといって人間として生きるには罪深い。そんな板挟みが彼の究極の難題であり、本作における「ヒーローの問い直し」だったのです。

それは言い換えればこういう問いになります。「ヒーローというのは、結局人にも獣にもなれないものでしかないのではないか」。もっと踏み込めば、そういうヒーローの実態が暴かれてなお、「ヒーローという虚構を信じる意義とはなにか」という問いだと考えられるのです。逆に言えば、彼は「ウルヴァリン」なのか「ローガン」なのか、彼は果たして何者なのかという答えが、そのまま本作のテーマに対する結論になるということです。まさにシリーズの総決算であると言っていいでしょう。


■ウルヴァリン

相変わらずコミックを否定し、リアリズムを語るローガン。そんな彼にチャールズがこう言います。「コミックは事実だ。彼女にとっては」と。

ヒーローなど居ないことは、ローガン自身が一番よく知っています。そんな彼は最後の最後まで自分を肯定しません。差別を扱う作品にありがちな、「人と違うということは個性なのだ」という結論にも至りません。最期の瞬間まで、自分の本能に従って闘うだけなのです。これはなんとも救いのない話に思えます。

しかし、チャールズの言葉はそんな絶望をはねのけます。つまり、自分が自分のことを許せるかどうかなど、重要ではないわけです。大事なのは、自身さえも否定するヒーローをこれ以上ない真実として純粋に信じてくれる誰かが、この世のどこかにいるということ。その一人がローラであり、そしてそれは今までずっと虚構のヒーローを信じてきた現実の我々なのです。

そんな「誰か」のために、ローガンは最後に何をしたか。「ちょっとずつ使って」と言われた薬をあえて全て注入し、現時点で自分がなれる最も強い「ウルヴァリン」になります。つまり、ローラたちの信じる虚構を全力で「演じて」みせたのです。自分ではウソだと知っていても、自分で自分を肯定できずとも、彼女たちの目にはホンモノとして映る。彼女たちだけは彼を肯定する。だからこそラストのあの一瞬だけ、彼はホンモノの「ウルヴァリン」になれたのです。

それはウルヴァリンが「獣」ではなく、「ヒーロー」となった瞬間でもあります。彼がそこで闘うX-24は、まさにウルヴァリンの「獣性」を具現化させたものであり、彼自身の「影」であるといえます。そんな「影」がアダマンチウムの銃弾に敗れるというのはなかなか示唆的です。この銃弾はローガンが自殺用に持っていたもので、言うなれば自己否定の末に使用されるはずのものでした。しかし、最終的にそれはローラがX-24を殺すために使用されます。それはつまり、「ウルヴァリンは獣ではない」と他者に示されたということ、他者に肯定されたということなのです。結局、銃弾は想定と真逆の使われ方をしたわけです。

このように、本作はみんなにとってのヒーローの話でなく、「誰かにとってのヒーロー」という非常に個人的な物語を描くものだったのです。


■自覚的な虚構

正直私にとって、『LOGAN/ローガン』という映画自体かなりフツーな作品でした。エモーショナルな要素が今ひとつ足りず、物語は終始単調だし、敵だって魅力に欠ける。なにより予告編を観て予想した通りのプロットで、意外性も何もありませんでした。しかし、その全てが「これまで観客が観てきた虚構の否定」という軸で正当化できてしまいます。

今まで私が観てきたウルヴァリンは確かに孤独で悲惨な部分もあったけど、それでも「ヒーロー映画」として気持ちよく観られるようにトリミングされていたんだな、と感じてしまいました。本作のR-15設定はその事実をわかりやすく伝えるものの一つです。現実にウルヴァリンがいたら手足はとれるし血だって流れる。本作に向かっていくら「物足りない!」と声を荒げても、「それが現実なんだよ。今まで君達がみてきたのは『虚構』なんだよ」という言葉が返ってくるだけのように思えます。

そう考えると、本作のX-MENシリーズにおける立ちふるまいもうまいと言わざるを得ません。

本作は過去のシリーズとの繋がりを思わせる要素がいくつか登場するにも関わらず、同時に明らかに繋がっていないような印象も与えます。繋がっていると考えるなら、本作は『X-MEN:フューチャー&パスト』のラストシーン(2023年という設定)から続いている物語のはずです。しかし本作は2029年という時代設定ですから、たった6年の間にあれほどまでに世界が荒廃したことになります。ありえなくもないですが、ちょっと想像し難い。他にも様々な矛盾点があり、結局過去のシリーズと繋がっていると考えても、繋がっていないと考えてもいいように作られています。

このふんわりとした作品関係はX-MENシリーズの伝統でしたが、本作ではその伝統が思わぬ効果を生んでいます。というのは、どういう作品関係にあると考えても、どっちみち過去のシリーズを一歩引いた目線で見させるようになっているため、本作のある種メタな視点というものを際立たせることになるからです。パラレルワールドとして考えても、観客の脳裏には既に本作のボロボロになったウルヴァリンの姿が焼き付いてしまい、無数にあるウルヴァリンの可能性の一つとしてそれが確かに存在してしまうことになります。これは、今まで観客が築き上げてきた「ウルヴァリン像」を揺るがすことになるわけです。

この作品の意義は、そうして今まで積み上げてきた虚構を一度完全に否定して、その上で再び自覚的に虚構を「語りなおす」ところにあると思うのです。骨は一度折れたところが一番強くなる、というやつです。類するものはあれど、ここまで徹底的にリアルで泥臭く、ヒーローに自己否定を語らせてまでそれをやり遂げようとした作品はちょっと思い浮かびません。

同じように、ウルヴァリンのあまりにもあっけない最期も、「誰かにとってのヒーロー」という軸で正当化できます。私から見て17年間に及ぶ歴史の幕引きとしてはあんなにもショボいあの一瞬が、ローラにとっては永遠に生きる支えになると考えると否定できないわけです。あのとき彼女にとってウルヴァリンがホンモノのヒーローとして映ったなら、それが何よりも彼を救済することになるからです。


■ローガン

忘れてはいけないのは、これはスーパーヒーローの物語に見えて、その本質は家族の物語だということです。

確かに、ローラにとってローガンは「ウルヴァリン」というヒーローでした。そしてローガンはその期待に応え、最期に「ウルヴァリン」を演じてみせました。しかし、あのときローラの目に映ったのは、同時に「父」というヒーローでもあったはずです。そしてローガンも、たったひとりの「娘」への愛こそが全ての原動力になったはずなのです。

チャールズが死の間際に「太陽号だ」と呟いたのは痛ましくも非常に切実です。それは明らかに船のことではなく、彼が直前にローガンに説いていた「人が互いに愛し合い、居場所となるところ」を指しています。世界からの逃避を目的として生きてきたローガンですが、チャールズの最期の言葉は、人の究極的な居場所はむしろ世界の内側に、それも非常に個人的な世界の内側にあるものだと教えています。それこそが家族であり、愛であり、人生における真の目的とすべきものなのです。

だからこそ、彼は最期にヒーローとして死ぬと同時に、「父」として死ぬのです。それはローガンが「兵士」でなく、一人の「人間」となることができた瞬間でもあります。

こうして考えると、これは明らかに現実の我々と地続きの物語となります。結局、いつの時代も人を生かすのは「愛」なのだ。スーパーヒーローの物語は、そんな当たり前の事実を「虚構」の皮を被らせて語っているにすぎない。本作はこのようなメタな事実を伝えているのです。

しかし、それは決してウソを信じることにはなりません。なぜなら「虚構」を信じることは、我々の「現実」を信じることに繋がっているからです。


■ヒーローの正体

彼は「ウルヴァリン」なのか「ローガン」なのか。その答えは、「『ウルヴァリン』でもあり、『ローガン』でもある」ということになります。

つまり、彼は獣ではなくヒーローとして「ウルヴァリン」という名を獲得し、兵士ではなく父(人間)として「ローガン」という名を獲得するわけです。これは明らかにパラレルな関係になっていて、ヒーローが何のメタファーになっているかということをよく示しています。結局ヒーローとは、「愛のために闘う人そのもの」なのです。そのごくごく「普通」な存在を、虚構のコーティングで物語に落とし込んで提示したものが「スーパーヒーロー映画」である、というだけの話なのです。

ではなぜわざわざそんなものが生まれるのか。現実世界に実際に存在するあらゆる「ヒーロー」だけでなく、なぜ「虚構のヒーロー」が重要なのか。それは、「虚構のヒーロー」に貰った勇気や、感動や、あらゆる信念こそが、我々の生きる支えになるからです。そしてそれはいつか我々自身がヒーローになるときの支えにもなります。

それは、まさしく本作で描かれたローラの姿そのものです。「ローガン=ウルヴァリン」は間違いなく彼女の中にホンモノのヒーローとして生き続け、そしていつしか彼女をもヒーローにさせるのです。


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