元気の出る戦争映画でした。
という感想を見て、不謹慎だなと感じる方はいらっしゃると思います。戦争を扱っているのに、「元気の出る」なんて......と。それは、戦争というものを重く受け止めていることの現れでもあり、大切な態度ではあると思います。
しかし、この映画は紛れもなく「元気の出る戦争映画」なのです。もっと言えば、そういう感想を堂々と口にすることの大切さを知らしめてくれる映画です。戦争というものを軽く扱うような作品では断じてなく、むしろ、これ以上ないほどに戦争というものに真摯に向き合わせ、考えさせてくれる作品なのです。
そしてもう一つ忘れてはならないのが、この映画は戦争映画であると同時に、その戦争時代を生き抜いた人々の映画であるということです。あのとき、あの場所で、世界の片隅に生きていた人々。そんな人々がなんとか自分を保ち、支え合いながら、「普通に」生きていこうともがく姿は、今を生きる我々に絶大な勇気と希望を与えてくれます。明らかに、この映画の主役は戦争そのものではなく、その時代を生き抜いた人々なのです。
今回の記事では、『この世界の片隅に』という作品が、今を生きる我々になにを伝えてくれたのかということについて書いていきたいと思います。(注意:本記事はネタバレ有りです。ネタバレ無しのレビューも外部サイトに書かせていただきましたので、興味のある方はこちらもぜひどうぞ↓)
(※2016.12.2追記)
映画ブロガーのヒナタカさんとこの作品について熱く語ったラジオです!前半はネタバレ無しなのでぜひ聴いてみて下さい↓
ヒナタカさんの感想記事はこちら↓
〈あらすじ〉
18歳のすずさんに、突然縁談がもちあがる。 良いも悪いも決められないまま話は進み、1944(昭和19)年2月、すずさんは呉へとお嫁にやって来る。呉はそのころ日本海軍の一大拠点で、軍港の街として栄え、世界最大の戦艦と謳われた「大和」も呉を母港としていた。 見知らぬ土地で、海軍勤務の文官・北條周作の妻となったすずさんの日々が始まった。
夫の両親は優しく、義姉の径子は厳しく、その娘の晴美はおっとりしてかわいらしい。隣保班の知多さん、刈谷さん、堂本さんも個性的だ。 配給物資がだんだん減っていく中でも、すずさんは工夫を凝らして食卓をにぎわせ、衣服を作り直し、時には好きな絵を描き、毎日のくらしを積み重ねていく。
ある時、道に迷い遊郭に迷い込んだすずさんは、遊女のリンと出会う。 またある時は、重巡洋艦「青葉」の水兵となった小学校の同級生・水原哲が現れ、すずさんも夫の周作も複雑な想いを抱える。
1945(昭和20)年3月。呉は、空を埋め尽くすほどの数の艦載機による空襲にさらされ、すずさんが大切にしていたものが失われていく。それでも毎日は続く。 そして、昭和20年の夏がやってくる――。(引用元)
〈感想〉
■この作品における「戦争」
第二次大戦中の広島を描くときに、戦争というファクターは切り離せません。従って、この作品では戦争というものがガッツリと描かれます。港に浮かぶ戦艦や駆逐艦、空を飛ぶ戦闘機。人々の恐怖と焦燥、物資の欠乏。火の海と化す町に、そして原爆......。どれもこれも、戦争というワードを耳にしたときに我々が想起するものです。つまり、要素要素で見れば、まさに戦争映画「らしい」画がバンバン映される作品なのです。
そんな「らしさ」にも関わらずこの作品がユニークなものになっているのは、その「描き方」が特殊であるからです。一言で言えば、この作品世界における「戦争」は、日常の一部であり、文字通り絵の背景にほかならないのです。
港に浮かぶ戦艦や駆逐艦は、周作や晴美との会話のタネであり、写生の対象でしかありません。段々畑で空襲を受けたときにも、「いまここに絵の具があれば」と主人公はのんきです。配給が日に日に減っていく様も決して悲劇的に描かず、むしろ工夫をこらして腹にたまる料理を作ろうとする楽しげな主人公の姿がフォーカスされます。
もちろん、悲惨な描写もなされます。火の海と化した町を逃げ惑う人々の姿は鬼気迫るものですし、防空壕で耳をふさぎ顔を伏せて空襲を耐え抜こうとする人々の様子も穏やかなものではありません。人の命もあっけなく次々と失われていきます。
しかし、それらはあくまで日常のリアルとして描かれるもので、そこにイデオロギーや価値観は絡んできません。「みんなが笑って暮らせる日が来ればいいのに」という言葉は、反戦思想というよりは、当時の人々の純粋な願いとして、日常の中でのぼやきとして語られます。主人公のすずさんが、突然の終戦宣言に憤りを露わにし、戦争というものへの耐え難い怒りを表明するシーンがありますが、それすらも作品における反戦思想の表現としてではなく、あくまでも「すずさんの嘆き」として描かれます。当時のリアルを淡々と描いているわけです。それは前述の通り、この映画の主役が戦争そのものではなく、その時代を生き抜いた人々であるからにほかなりません。
では、なぜそのような「描き方」をしたのでしょうか。その答えは、「地続き」という感覚にあります。
■地続き
戦争の時代というと、現代の我々は「とにかく悲惨で辛い負の時代」というイメージを抱きます。あの時代は、人類が大きな間違いを犯した罪の時代だ。考えるのも嫌になるような絶望的な喪失の時代だ、と。そういう感覚は決して間違いではないでしょうし、いつまでも刻んでおかなくてはならない大切な傷だと思います。
しかしながら、注意すべきは、その感覚によって我々が過去をあまりに客観視してしまうことです。いわゆる「地続き」の感覚が失われてしまう。それは、戦後70年が過ぎ当時をリアルタイムで経験した人が年々少なくなっていく現代において、特に危ぶまれる事態です。
戦争の惨禍を忘れてはいけない。それと同じくらい、戦争の時代を生きていた人々の存在も忘れてはいけないのです。今の世界も、今の我々も、あの時代を必死で生きた人々から連綿とつながる歴史あっての存在なのだ。『この世界の片隅に』は、ともすれば忘れてしまいがちなそんな事実を、再び思い出させてくれる作品なのです。
例えば、すずさんが少ない食料で料理を作るシーンを見て、我々は何を感じたでしょうか。「この時代は貧しくて食事もろくに取れない可哀想な時代だったんだな。だから今の生活に感謝しなくちゃな」というようなことでしょうか。私は違いました。あのシーンから感じたのは、その貧しい時代をなんとか生き抜こうとする人々の力強さです。同様に、恐らく二度と帰ってこれないであろう哲をすずさんが送り出すシーンを見て感じたのは、「この二人はもう会えないのか、可哀想だな。こんなことが起こらない今って幸せだな」ということではありません。「普通に」生きることをすずさんに託し、なんとか最後まで笑いながら旅立った哲と、それをただ見送ったすずのどうしようもないやるせなさと力強さです。これは、作品が「戦争」そのものでなく「人々」にフォーカスしたからこそ得られる感傷です。
あの時代は可哀想で不幸な時代、今は恵まれた幸せな時代。間違ってはいないかもしれません。しかし、「可哀想」という表現は、時として現在に立つ我々が過去を見下す表現になります。地続きの感覚を失ってしまうことにつながるのです。
自分に無関係な遠い昔の物語ではなく、あの時代は今の時代と確かに「つながっている」のだという感覚は、非常に重要です。この作品が無闇にイデオロギーや価値観を交えず、ただ淡々と当時のリアルを描くことに徹したのもこのためです。パンフレットやインタビューを読むとわかりますが、原作者も監督も、この作品の制作にあたって広島や呉の現地へ赴いたり、文献を紐解いたりと、徹底的な考証作業を行っています。そして監督はこうも言っています。
すずさんたちは確かに我々の「この世界」の片隅に実在する。そんな実感を、なるべく多くの観客の皆さんに届けられたらいいなと、本当に願うばかりです。(パンフレットより)
あの時代に、確かにすずさんがいた。そこで生きていた人々がいたのです。この映画で映し出される人々の姿は、現在の我々と全く変わりません。時代への不安や疑念を抱えながらも、誰かと笑い、食卓を囲み、喜んだり悲しんだりして、世界の片隅で必死に生きていた人々なのです。だからこそ、もしこの作品から元気を貰ったのなら、我々はそれを臆せず口にしなければならないのです。
分断された過去としてでなく、地続きの歴史として描くことで、現在の我々がその物語に影響を受け、そして普遍的な何かを受け取る。それこそが今作の意義であり、もっと言えば、物語の意義でしょう。
■「普通に」生きていく
では、我々はこの作品から何を受け取れるのでしょうか。それは、「『普通に』生きていくことの難しさと尊さ」です。
哲はすずさんにこう言います。「お前だけは、最後までこの世界で『普通』で、まともでおってくれ」と。このセリフに象徴されるように、この作品が描いてきたのは戦争の最中でもなんとか自分を保ち、普通に生きようとする人々の姿でした。不幸な時代かどうか、悲惨な時代かどうかに関係なく、ただただ生きていくこと。それがいかに難しく、そして尊いことかを知らしめる作品だと思います。
この作品で特筆すべきことは、死すらも淡々と描かれることです。すずさんの兄の死や、径子の夫の死が観客に知らされたとき、作中の人物はかなり平然としているように思えます。哲を送り出すシーンでも、そこに悲壮感はあまりありません。町の人々は、息子を兵隊に取られただのという「死の臭い」が漂う会話を、世間話のように話しています。すみが両親の死をすずさんに伝えるシーンでも、まるで思い出したかのようにこれを伝えます。ともすれば、「死」というものが軽く扱われているように思えるかもしれません。
しかし、作中で唯一明確な重みと悲しみをもって描かれた死があります。それが晴美の死です。彼女の死によって、径子はすずさんを人殺しと呼び、すずさんは自分を追い詰めます。家の裏口で娘の名を口にしながら泣き崩れる径子の姿も描かれます。これまでのほほんとしていた作品世界に、突如ドロドロとした生々しい負の感情が出現するわけです。
これによって、我々はこの作品における死というものにようやくリアリティを見出だせるようになります。つまり、今までの物語の裏では、このような深い悲しみがいくつもあったということを直感するのです。そして、作品を「死の臭い」が包み込んでいるにも関わらず人々が平然としているように見えたのは、彼らが平然と、すなわち、「普通に」生きようと努力していたからだということを理解するのです。
血まみれの作業服や、片腕のないすずさんなど、現代の我々が日常生活で目にしたら動転してしまうようなものも、この作品の人々は生活の一部として受け入れています。そう、受け入れているのです。それらを軽んじているわけでも、鈍感でいるわけでもありません。同じように、死も受け入れているのです。それは画面には映されない、我々の想像し得ないような深い悲しみと嘆きを経て至る境地であり、それが彼らの強さなのです。
晴美の死という出来事は、当時の人々がその境地に至った過程を我々に見せてくれます。
すずさんにとって絵を描くという行為は、自分を保ち「普通に」生きてくためのツールでした。そして、彼女の周りの人々も、彼女の描いた絵を見てなんとか普通を保っていたわけです。この作品における彼女の絵は、当時の人々が普通に生きるための支えや希望といったものの象徴だったわけです。
しかしながら、例の事件で彼女は晴美とともに右手を失い、絵が描けなくなります。彼女の「普通」が揺るがされる最大の危機が発生するわけです。広島へ帰りたいと言い、今まで北條家の人たちと築き上げてきた居場所も失われそうになります。そして玉音放送による敗戦宣言。すずさんは「まだ左手も両足も残ってるのに!」と言って怒りを露わにします。勝利するでもなく、玉砕するでもなく、いままで耐えてきたのは何のためだったのかという虚無感。そしてしまいには、「ぼーっとしたうちのまま死にたかった」という、最大の絶望を示すわけです。ここにきて、彼女は「普通」ではなくなります。
こうして、この物語は主人公を徹底的に追い詰めることで、「普通に」生きることの難しさを見せつけるわけです。しかし、物語はそこで終わりません。最終的に主人公は絶望を乗り越え、我々に「普通に」生きることの尊さを教えてくれるからです。
■大事なのは今を生きること
周作がこんなことを言うシーンがあります。「過ぎたこと、選ばんかった道。みな醒めて終わった夢と変わりゃせんな。」あるいは、径子も自らの悲惨な人生を語りながらも、最後に「でもそれがうちの選んだ道」だと言っています。
すずさんは晴美を死なせてしまった罪悪感から、「あのとき自分が右側だったら」「すぐどこかに飛び込んでいれば」と後悔を重ねますが、それは周作の言う「醒めて終わった夢」にほかなりません。大事なのは今を生きることであり、径子もすずさんに対して怒ってしまったことを謝ります。これこそが、何かを「受け入れる」ということです。
今を生きていくためには、過去の失敗や後悔や未練、あるいは大切な人の死すらも、すべて受け入れて前に進むしかないのです。なかなか出来ないことですが、この作品に登場する人々は、戦時中という極限状態の中でそれをやってのけます。全てを受け入れて「普通に」生きようともがく人々の美しい姿を、我々は目の当たりにするのです。その強かな力こそが、日本にあの時代を生き延びさせ、今の我々を生かしている。連綿とつながる命の連鎖を生み出しているのです。そう考えると、これほどまでに勇気と希望を与えてくれることはないでしょう
しかし、もっと重要な事があります。それは、彼らがそんな極限状態でも自身を奮い立たせて戦い抜くための「拠り所」とは何だったのかということです。
(※2016.11.14追記)
すでに原作を読んでいらした方は、白木リンのエピソードがごっそりカットされていたことに気付かれたかもしれません。原作の中核的な部分だったのになぜ? という声が上がっていますが、その裏には監督のとてつもなく熱い想いがありました。以下がそのことについて書かれている記事です。
■この世界の片隅にある居場所
この作品のキーワードは、「居場所」です。
人々はなぜ、あの時代で「普通に」生きようともがくことができたのでしょうか。生きることを諦めなかったのでしょうか。それは、彼らが互いに互いの居場所となっていたからです。
その事実をもっとも端的に表しているのが周作です。例えば彼がすずさんに対し、「わしは絶対帰ってくるけぇ、すずさんのとこへのぉ!」と言って出ていくシーンがあります。あるいは最後の橋のシーン。たとえいろいろなものが変わっていくとしても、自分はすずさんを見つけられる、というようなことを言っていました。つまり、すずさんは彼の「居場所」だったのです。
径子もすずさんに対し、「すずさんの居場所はここでもええし、どこでもええ。自分で決め」と言い、そしてすずさんは北條家に残ることを決意します。彼女にとってもまた、北條家が自分の「居場所」になっていたのです。
「居場所」とは何でしょうか。ただ単に場所のことを示しているのではありません。それは、日常の中で接し合う人と人のつながりであり、自分の生きる場所です。家族であること、友人であること、恋人であること......。人と人がつながるということは、互いが互いの居場所になるということなのです。それこそがいつの世も、「この世界の片隅」で行われていることなのです。
ありがとう。この世界の片隅に、うちを見つけてくれて。(北條すず)
主人公を絶望の淵から救ったのは、まさにこの事実でした。たとえ心に大きな傷を負ったとしても、それでも生きなければならない。それは、生きている限りどこかに居場所を見つけられ、そして自分もまた誰かの居場所になることができるからです。
その象徴として、最後に孤児が出てきます。あの女の子は母親を亡くしましたが、すずさんを自分の新たな居場所として見つけ、同時にすずさんも彼女の居場所になることができました。それは紛れもなく、あの女の子もすずさんも、どちらも生きることを諦めなかったからこそ起こった奇跡です。
女の子はすずさんと周作が引き取り、北條家へと連れられます。ふと呉の山を見てみると、光が灯りはじめています。その一つ一つが誰かの「居場所」であり、「この世界の片隅」なのです。そうした「片隅」が寄り集まり、連綿と受け継がれて、我々は今の世界を生きています。
最後は北條家が映されて終わります。屋根に空襲の被害を受けながらも、すずさんたちが必死で守り抜いた家。それはまさにこの作品における「居場所」の象徴であり、「この世界の片隅」だったのでした。
(※2016.12.12追記)
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