新海誠監督作品の最新作。初めてタイトルに句点が使用されていることからも、彼の今までの作品の集大成をみせよう、という凄みを感じるこの映画。題材は「男女入れ替わり」というよくあるもの。予告でもその点を猛プッシュしていたので、流石にもう一捻り入れてくると思ったのですが、予想通りでした。単なるカップル御用達映画ではない、確固たるメッセージを備えた作品だったと思います。
都会と田舎、糸守の神、カタワレ時、組紐、彗星、そして「ムスビ」。様々な要素が融和して、この作品を強いものにしています。では、果たしてこの作品はどこが「強い」のか。その「強さ」によって、我々は何を信じることができるのか。今回の記事では、そんなことについて書き綴っていこうと思います。
〈あらすじ〉
1,000年に1度のすい星来訪が、1か月後に迫る日本。山々に囲まれた田舎町に住む女子高生の三葉は、町長である父の選挙運動や、家系の神社の風習などに鬱屈(うっくつ)していた。それゆえに都会への憧れを強く持っていたが、ある日彼女は自分が都会に暮らしている少年になった夢を見る。夢では東京での生活を楽しみながらも、その不思議な感覚に困惑する三葉。一方、東京在住の男子高校生・瀧も自分が田舎町に生活する少女になった夢を見る。やがて、その奇妙な夢を通じて彼らは引き合うようになっていくが……。(引用元)
〈感想〉
※以下、ネタバレ注意
■見事な「距離」の描写に唸る
新海作品では、主人公2人の「距離」がテーマとなるというのはよく言われることですが、今作品ではこの描写がかなり上手かったです。
スマホ流行りのこのご時世に、入れ替わりを題材にして「距離」を描くのは生半可なことではありません。一本電話をかけてしまえば、そこで物語は終わってしまうからです。しかしながら、この作品は単なる入れ替わり映画にするのではなく、中盤以降にサスペンスやミステリーの要素を加えることで、この難しさを見事にクリアしています。
はじめ、観客はこの映画における「距離」が、都会と田舎という物理的距離のみであると錯覚します。しかし、中盤で入れ替わりにおける「時間のズレ」を明示することにより、この映画におけるもっと大きな「距離」を発見するのです。すなわちそれは、時間の距離であり、記憶の距離であり、生死の距離であったわけです。
これにより、観客はかなりの説得力をもって「距離」を感じることができます。そもそも入れ替わっている時間軸が違って、しかも一方は過去に死んでいるとなれば、いくら現代の技術であろうと歯がたちません。この構造により、作中でスマホがバンバン出てきても、違和感や不都合なく物語を進行させることができるわけです。なぜか携帯がつながらない、なんてご都合展開はよくありますが、この作品ではそういったご都合要素を排除することができているのです。
■この映画における「糸」
かくして主人公2人、すなわち瀧と三葉を徹底的に引き離すことで、その後彼らを再開させることによるカタルシスを描くわけですが、そのラストシーンに至るまでに起こるイベントや、使用される舞台装置にはなかなか示唆的なものが多いです。
その象徴的なシーンが、瀧が口噛み酒を飲んだあとに次々と三葉の過去が映し出されるシーンです。あれは、この映画の核をなすシーンと言っていいでしょう。
あのシーン、そしてこの映画全体におけるキーワードは「糸」です。「糸」守における組紐の伝統は、「ムスビ」という氏神の力を象徴するものでした。一葉のセリフがそれをよく語っていますが、そこで語られたのは、「人も時間も、糸のようにねじれ、絡まり、切れ、また繋がることによって、形をなしてゆくものだ」ということでした。このセリフは、まさに今回の入れ替わり物語の端的なまとめになっています。瀧と三葉という「人」、そして2人が存在する「時間」。それぞれが入れ替わり現象によってねじれ、絡まり、そして一度は切れ、また繋がったのでした。
その「糸」の物語を飾り立てるのが、「彗星」です。現在と過去を繋ぐ周期的な天体現象として物語に取り入れられたものですが、前述のシーンの中では彗星に関する見事な演出がなされています。それは、瀧の持つ赤い糸が、徐々に糸守町に落ちる彗星へと変化していく、という演出です。他にも、赤ん坊のへその緒や、母親の死の描写により、人間の生命という一つの「糸」をも描いています。
このシーンは見事の一言です。瀧と三葉の関係と入れ替わりやタイムスリップの契機となった彗星、そして人間の生命そのものが、「糸」という一つのワードによって結びつけられてゆきます。このシーンにより、この映画の核が視覚化・明示化され、これまで断片的であった要素を重ねて、「強い」メッセージを生み出すことに成功しています。
■「糸」の物語が伝えること
この物語を語る際に、「運命」というワードは無視できません。「運命の赤い糸」なんてよく言いますし、まさにこの映画も「糸」の物語だからです。
では、この物語を単に「運命の物語」として良いのでしょうか。確かに、そういう評し方もあるかもしれません。しかしながら、その場合注意しなければいけないのは、「運命」という言葉が何を意味しているかということです。
1200年に1度の彗星の接近にそなえ、宮水家で代々起こっていた入れ替わり現象。つまり、三葉が入れ替わり現象に巻き込まれるのは、ある意味「運命」だったのかもしれません。この場合、「運命」という言葉は、辞書通り「天命によって定められた人の運」という意味で用いています。
しかしながら、瀧の方はどうでしょう。よく考えてみると、この物語のもう1人の主人公が瀧である必然性はどこにもありません。例えば、過去に糸守町や彗星と何らかの関わりがあったとか、そういった描写があれば別です。しかし、少なくとも作品中ではそういったエピソードは描かれないのです。
つまり、これはどういうことかというと、この物語の主人公が瀧と三葉の組み合わせである必然性・運命性は、どこにもないということです。そのまま生きていれば出会うこともなかったであろう2人が、入れ替わり現象によって、俗に言う「運命の相手」のように仕立てられてしまうわけです。
なんだか夢のないことを言っているようですが、実はこのことは我々にとって大きな希望として語られます。私は、この映画の優れた点は、この「非運命性」にあると思っていて、欲を言えば、例えば三葉の方も一般の田舎の家の娘にするなどして、もっと2人の非運命性を強調した作りにして欲しかったとさえ思うくらいなのです。
この物語は、非運命的な2人からすべてが始まります。瀧にはすでに想い人がいましたし、三葉はもしかしたら宮水神社の巫女としての使命のために、糸守から出られなかったかもしれません。しかしながら、彼らは彗星接近という「ムスビ」の力によって、場所も時も生死も超えて、入れ替わり現象の対象に選ばれてしまうわけです。これぞまさに、「人や時間が糸のようにねじれ、絡まり、切れ、また繋がる」ということなのではないでしょうか。
■運命よりも、もっと素晴らしい「運命」
この映画のテーマソングである、「君の前前前世から僕は君を探し始めたよ」という歌詞の曲が目立っていて、この映画に「運命感」を醸し出させているのはちょっと良くないと思います。前述の通り、入れ替わりのキッカケそのものは、1200年に1度の彗星が来るから、というだけの全くの偶然であって、瀧と三葉の2人の組み合わせにも運命性はありません。
しかし、その偶然的なキッカケから、徐々にお互いがお互いなしではいられない存在になっていく様は、まさに非運命から生まれた運命の有り様そのものです。つまり、彼らはもともと「運命の相手」だったのではなく、彼らが互いを求め、互いの名前を知り合おうとするそのエネルギーによって、結果的に「運命の相手」になったということなのです。赤い糸というのは、最初から結ばれているものではなく、自分たちの行動や選択によって、能動的に結びつけるものなのです。
以上のように考えると、この映画は、予め天によって定まっているという意味の「運命」を徹底的に否定し、自分たちの「想い」によって能動的に定める意味での「運命」を徹底的に肯定する映画であると言うことができそうです。もし、入れ替わり現象が途絶えたあとに、瀧が三葉に会いに行こうとしなければ、あるいは、もし三葉が隕石落下前日に瀧に会いに行こうとしなければ、2人は「運命の相手」にはならなかったはずです。彼らの人生を決めたのは入れ替わり現象そのものではなく、その後の彼らの行動と選択にあったということなのです。
このように、徐々に彼らが「運命の相手」となっていく様を、カタワレ時(=片割れ時)や、口噛み酒(=三葉の「半分」)、そして三葉の組紐(=運命の赤い糸)などによって、美しく叙情的に意識させる演出は見事ですし、新海作品の真骨頂を観た気がします。
■物語性より体験性
そういう意味では、前にも書いたとおり、この作品の不満点としては「非運命の描写が弱い」ということが挙げられます。新海監督は、今回の作品では何より「楽しいと言ってもらえるような映画」を目指したらしく、そのおかげで作品の色はポップになり、良くも悪くもエンタメ的な要素は増しました。如何に飽きさせず観客を107分間引きつけるか、如何にテンポよく話を作るか.......。物語性というよりは瞬間最大風速を狙う映画で、音楽による過剰なまでの盛り上げも、物語としての完成度よりも、インパクト重視の作品であることをよく示しています。結果、例えば作品の力点は2人が出会うことなのか、町の救済なのか混乱するといった物語的な欠陥も出てきています。震災後映画として観れてしまうのも問題でしょう(これについては後述)。
つまり『君の名は。』は、物語性よりも、気持ちのよい体験、スッキリする体験ができるという「体験性」を重視した作品であると言えます。
しかしながら、カップル御用達映画と思わせて引き込んだカップルたちに、ガツンと衝撃を与えるようなものであって欲しかったという個人的な願望はあります。美しい映像と怒涛の展開に押され、結局「あー、感動した〜」で終わってしまう映画になっては、「やっぱりそういうキラキラ映画じゃないか!」と言われても仕方ありません(あと、3年のズレはまず日記の日付の時点で気づくはず、とか、所々甘い点もあります)。彼らがこの映画を観たとき、「運命の2人の、ちょっと高級なラブストーリー」以上の物語として見てくれるかは疑問です(実際はそういった都合の良い「運命」を否定する話なのですが)。
■我々が信じるべき「糸」
我々の周りは、非運命に満ち溢れています。彗星の分裂も予想不能な出来事でしたし、3.11も人智を超えた自然による災厄でした。瀧も最後の面接にて、「東京もいつ消えてしまうかわからない」というようなことを言っています。
そんな理不尽な我々の世界における希望を、瀧と三葉の関係に縮尺して見出しているのがこの作品だと思います。
非運命に満ち溢れているということは、逆に言えば「何が起こるかわからない」ということでもあります。その非運命に対し、「想い」という手綱を締めてやれば、物理的距離も時間的距離も関係ないということを、この作品は言っています。「想い」による「距離」の乗り越え。『君の名は。』は、「入れ替わり」や「タイムスリップ」といったSF要素によって、その極端な例をエンタメ的に脚色して描いているにすぎないのです。
震災後映画という文脈からこの作品を語るのであれば、いっそう上のような解釈をとる他なくなるでしょう。つまり、この映画は「災厄など、3年前にタイムスリップでもしなければ防げるものではない」と言っているのではなく(その側面もあるかもしれませんが)、むしろ「非運命的な我々の世界では、どんな不幸(=隕石落下)が訪れるかわからないのと同時に、どんな幸運(=タイムスリップ)が待ち受けているかもわからない」ということを言っているのでしょう。そう解釈しないと、あまりにも救いのない内容になってしまうからです。
何が起こるかわからない、可能性に満ち溢れた世界。あなたがさっき歩道橋ですれ違った人は、もしかしたらあなたの一生の相手になるかもしれない。それを決めるのは、これからのあなたの行動と選択なのです。
ただし、個人的にはこの映画を震災後映画の文脈で語るのはオススメしません。描写の熱量配分から言って、震災というのは時代の流れで自然に出てきたモチーフであって、本作の中心テーマはそこにないと思いますし、なにより、そもそも震災後映画としては原理的に成立しない構造になっているからです。
(※これについては以下の記事参照)
以上のような解釈からをすると、『君の名は。』は、「物理的距離」「時間的距離」「生死の距離」といったあらゆる理不尽な距離を、「互いの名前を求める」という純粋でエモーショナルな想いが乗り越えてゆく物語であると言えるでしょう。我々は、まさに非運命の不思議に紡がれた「糸」であったのだ。そういうことを、今一度思い出させてくれる映画と評してもよいかもしれません。天にではなく、我々自身に主導権がある「運命」があるならば、それは希望として語られるのです。
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