『シン・ゴジラ』感想記事 〜虚構に対する現実の答え【ネタバレ注意】

ニッポンのゴジラが帰ってきました。

宣伝方法も独特で、徹底した秘密主義に豪華なキャスト陣。そして何より監督に樋口真嗣、総監督に庵野秀明という布陣で話題を呼んだ今作。

当初、庵野監督に対しては、様々な人から「実写への逃げだ」という非難がありました。しかしながら、結果的には

日本映画への良い刺激になったと思います。

いやむしろ、

日本映画史に名を残す作品になったでしょう。



〈あらすじ〉

東京湾アクアトンネルが崩落する事故が発生。首相官邸での緊急会議で内閣官房副長官・矢口蘭堂(長谷川博己)が、海中に潜む謎の生物が事故を起こした可能性を指摘する。その後、海上に巨大不明生物が出現。さらには鎌倉に上陸し、街を破壊しながら突進していく。政府の緊急対策本部は自衛隊に対し防衛出動命令を下し、“ゴジラ”と名付けられた巨大不明生物に立ち向かうが……。(引用元)



〈感想〉

私がこの映画について書きたいことはただ一つ。それは、

「現実〈ニッポン〉対虚構〈ゴジラ〉」

というあのキャッチコピーの内容の行方についてです。

この文句はかなり良く出来ていて、ゴジラという映画を端的に表す秀逸な表現だと言えます。つまり、人智を超えた災厄というものを、ゴジラという虚構にのせ、これに対してニッポンという現実が挑んでいく様を描くのがゴジラ映画なのです。

しかしながら、誤解しないでいただきたいのは、ゴジラが全くの虚構ではないということです。むしろ、ゴジラ映画、特にこの『シン・ゴジラ』には、多くの現実が込められています。虚構であるはずのゴジラですら、我々には現実に見えてくる。そしてまさにそのとき、我々はゴジラというメタファーが提示するものに気づくのです。

では、ニッポンという現実は、ゴジラという虚構に対しどう戦ったか。我々はこの映画から何を受け取るのか。以下で詳しく考えていきましょう。



現実に補強された虚構

庵野監督が今回徹底したのは、徹底的なリアリズムでした。ゴジラという巨大な虚構に説得力を持たせるためには、それ以外の部分は徹底して現実に即していなければならないと考えたのです。この効果は良くも悪くも絶大だったと言えます。緊急時でもいちいち会議のプロセスを経ないと記者会見すらままならない日本の政治構造、米国の属国としての一面、いざゴジラが暴れ出さないと危機感を持たない呑気な国民......。まさに、2016年の日本にゴジラが突然出現したらこうなるであろうという画がバンバン提示されました。

『シン・ゴジラ』におけるリアリズムにおいて、特に利用されたのは3.11です。矢口が被害地を呆然と眺める画や、政府の放射能に関する記者会見には、かなりの既視感を覚えるでしょう。このあたりに、「ひょっとしてゴジラは虚構ではないのではないか」と観客に思わせるカラクリがあります。「今だからできる、今しか出来ない」ゴジラ映画と庵野監督が評したのは、まさにこのような理由なわけです。



■いよいよ描かれるニッポン対ゴジラ

さて、徹底してリアリズムを突き詰めることで得られる恩恵は、単にゴジラの存在に説得力を持たせられることだけではありません。それよりも大きな効果としては、観客である我々日本人が、映画の中の日本人と一体になれるというものがあります。つまり、映画という虚構世界に、現実世界の我々を没入させ、引き込むのです。ニッポン対ゴジラという文句で謳われる「ニッポン」には、観客である我々も含まれているわけです。

通常、物語を作る際に気をつけなくてはならないことの一つとして挙げられるのは、いかに受け手に感情移入をさせるかということです。登場人物の言動や、映画内で起こるイベントに受け手が共感できないと、その作品は観る人にとって「なんだかよくわからないもの」で終わってしまい、良い作品とは言えなくなります。そこで、作り手は例えばキャラクターのセリフ一つ一つに対しても、「こいつならこういう経験をしてるからここでこういうことが言える」「このときこいつはこう考えるはずだ」などと計算とシミュレーションを重ねていくわけです。

では『シン・ゴジラ』はどうでしょう。こうした観点から考えると、この映画は卑怯なまでに我々を感情移入させる要素を有しています。3.11の震災や、核の脅威といったものは、日本人なら本能として刻まれている圧倒的恐怖体験であり、絶望体験であるわけで、これをフルに活用したこの映画は、観客を感情移入させるという点においてまさに無敵です。日本人にとって、これ以上に共感と団結を生む出来事はないからです。

映画で描かれる虚構の恐怖=ゴジラに対し、現実の補強による共感が生まれると、どうなるか。ニッポンが立ち現われてきます。東京を蹂躙するゴジラを観て、本能を揺さぶられた我々は、その圧倒的恐怖体験・絶望体験の前に言葉を失い、なんとしてもこいつに打ち勝ちたい!、ニッポン頑張れ!という思いが芽生えてきます。カヨコも米国の特使でありながら、徐々に「日本人の血がさわいていく」様が描かれます。普段は個人として尊重される我々も、この映画を観るうちに徐々に「ニッポン人」になっていきます。このとき初めて、「ニッポン対ゴジラ」の構図が完成すると言えましょう。


■ゴジラより怖いもの

この映画におけるエネミーは、ゴジラのみではありません。いやむしろゴジラは、それよりももっと恐ろしい物のメタファーに過ぎないことに、我々は次第に気づいていきます。

その事実を象徴的に示すのが、「ゴジラより怖いのは、私達人間ね」という尾頭のセリフです。これは、国連がゴジラに対して熱核兵器の使用を決定した際に発せられたセリフでした。このあたりから、この映画を彩る「ニッポン対ゴジラ」の構図のメッキは剥がれてゆき、徐々に「ニッポン対人間」という真の構造が顕現します。ゴジラをいかに食い止めるかという話が、いつの間にか米国の熱核兵器の使用をいかに阻止するかという話になるわけです。「祖母を不幸にした原爆を、この国に3度も落とす行為を、私の祖国にさせたくない」というカヨコのセリフは、単に彼女の祖国の血がさわいだことを示すのみならず、原爆や、ひいてはそれを使用する人間への明確な敵意を表しています。牧博士も、妻を被曝によって失った放射能の犠牲者でした。そして何より、あのゴジラそものものも、各国が海底に捨てた放射性廃棄物によって誕生したのです。つまり、ゴジラを生み出したのは我々人間であり、逆に言えば、人間はその内にゴジラを飼っているのです。

こうなると、この映画における「ニッポン」は、単に3.11や原爆のトラウマから脱却することのみならず、もっと大きな使命を持つものとして描かれていることになります。それはすなわち、贖罪としての使命です。この映画で、人間はゴジラを生み出してしまった。我々はいつでもゴジラになれるのです。牧博士は、自身の研究をすすめる中でいち早くこの事実に気づき、あえてこれを隠蔽しました。いずれ襲い来るであろう「呉爾羅」を見過ごし、これを解き放ったのです。「私は好きにした」というのは、このことを指すのでしょう。つまり、「呉爾羅」という博士のネーミングからも分かるように、彼はゴジラを神の化身ととらえ、力を持ちすぎた人間の罪に対して審判を下す存在と考えたのでしょう。そして、それに立ち向かう「ニッポン」という国は、「人間の本質的怪獣性や、凶悪性といったものをどう飼いならすか」という博士の問いに対するアンサーを与える使命を担っているわけです。「ニッポン対ゴジラ」の勝敗如何が、まさに「人間が自身の罪にどう向き合うか」の直接的な答えになるわけです。



■ニッポンの示した答え

ゴジラの駆除方法について、ニッポンは決断を強いられます。一つは「ヤシオリ作戦」、もう一つは「原爆投下」です。

「原爆投下」というのは、「ヤシオリ作戦」よりも確実性があり、現実的な方法として語られます。しかしながら、最終的にニッポンという国が選択したのは「ヤシオリ作戦」でした。里見の言葉で言えば、「我が国は、人徳による王道を往くべき」と判断したのです。これがまさに、荒ぶる神に対して、牧博士に対して、そして人間に対して、ニッポンが示したアンサーだったのではないでしょうか。言ってしまえば、ゴジラを原爆投下によって駆除するということは、「ゴジラという怪物を制御するには、自分たちも怪物になるしかない」ということを認めることになります。つまり、「人間が自身の罪にどう向き合うか」というあの問題に対して、「自身の罪を肯定する」という立場を取ることになるのです。しかしながら、ニッポンは「ヤシオリ作戦」決行によって「人間の人徳」を信じました。「この国を最後まで諦め」ないことで、「人間」をも諦めない道を選んだのです。

結果として、ゴジラは凍結され、東京のど真ん中に沈黙する形で幕を下ろしました。ゴジラが完全なる外的な悪意として描かれているなら、こんな終わり方にしないはずです。あえてゴジラを完全粉砕せず、むしろその原型を留めたまま東京に沈黙させたのは、やはりゴジラが「人間の罪」のメタファーであることを示唆しているのでしょう。実際、劇中でゴジラは「人類の希望」という側面からも語られます。つまり、水と空気によって無尽蔵のエネルギーを生み出す点において、利用価値があるわけです。人類の希望であり、同時に絶望でもある。これと全く同じことが、原発にも言えるのではないでしょうか。しかしながら、この映画はそういった「人間の罪」を、完全には否定しません。むしろこの映画が訴えかけているのは、「人間は自身の罪を乗り越え、飼いならし、内に住む魔物と共存して生きていかなければならない」ということでした。ゴジラに対して核兵器を使えば、この共存可能性は否定されたでしょう。しかしながらニッポンは、人間の代表として見事その罪を乗り越え、飼いならし、共存したのです。「確かに人間は魔物を飼っている。しかしながら、我々にはそれを飼いならせるだけの『人徳』がある」という答えを示しながら......。これは、人間にとって大いなる希望として語られることではないでしょうか。



■「好きにする」こと

なぜニッポンは「人徳」の道を歩むことが出来たのでしょうか。様々な理由があると思いますが、一言で言えば、それは「好きにした」からでしょう。

牧博士は、人間を、ニッポンを試していました。「好きにしろ」という遺言を遺して。確かに、牧博士は放射能を憎んでいたし、それを生み出した人間や、妻を見殺しにしたニッポンを憎んでしました。しかしながら、そんな彼でもやはり祖国を信じたかったのです。その思いは、あえてゴジラの分析データと、折り鶴を船に遺していることからも明らかです。ニッポンに試練を与え、これに対して彼らはどう立ち向かい、どのような答えを出すのか。「好きにしろ」という挑戦に対し、ニッポンはどう「好きにする」のか。博士の最大の目的はまさにこれだった、すなわちニッポンの提示する「答え」を見届けることだったのです(厳密に言えば彼は死んでしまっているので見届けるのは不可能ですが)。

「好きにする」というのは、実際はなかなか難しいことです。カヨコも「この国で好きを通すのは難しい」と言っています。しかしながら、矢口はこれに対し、「俺一人じゃな」と返します。つまり、矢口一人では「好きにする」ことはできないが、ニッポンという国が国連や米国に屈しないほどに一丸となり「人徳」を信じれば、「好きにする」ことができると考えたのです。このメッセージには色々と考えさせられます。


■不満点

やはり、色んな人に指摘されているように、この映画の欠点は「ニッポン」の描写が甘いことです。この映画の内容上、国として一丸となった「ニッポン」が描かれることは必要不可欠なはずなのに、例えば現場の人間は作戦のコマのようにしか描かれないし、実際に被災している一般人は逃げ惑い、避難するだけです。これでは、「矢口率いる日本の上層対ゴジラ」になってしまいます。現場の人間のドラマはもっと描写すべきだったはずです。また確かに、実際にあのような事態になれば、一般人は何も出来ません。しかしながら、彼らも「ニッポン」の一員です。避難先で「ニッポン」を信じ、祈る描写くらいあってもよかったのではないでしょうか。

もう一つの不満点としては、撤退したリアリズム追求の弊害です。これは一つ目の不満点と関連していますが、前述のとおりこの映画においては徹底したリアリズムの立場をとっているにも関わらず、肝心な「戦場最前戦の悲惨さ」や「被災そのものの悲惨さ」についての描写が甘いのです。後者に関しては瓦礫に埋もれた人の画が一瞬映るくらいで、あとはゴジラが東京を崩壊させる「引き」の画が続くばかりです。そこには確かに恐怖や絶望を感じますが、如何せん記号的で、ちょっと「キレイさ」が目立ちます。リアリズム追求の効果は「良くも悪くも絶大だった」と私が前に書いたのはそのためで、つまりこの映画の描写の甘さによる「非現実性」という欠点が、リアリズム追求によって悪目立ちしているのです。


■虚構に対する現実の答え

以上のように考えると、この映画はこんなことを言っていることになります。すなわち、「人間が自身の内に住む『ゴジラ』を飼いならすには、『人徳』を信じなければならないが、そのためには何者にも屈せず、確固たる団結と意志の力を持たなければならない」と。かつてプラトンは、魂の三機能説、すなわち、人間は「理性」「欲望」「気概」の3つから成り、これらが調和している状態こそ正義であると唱えました。ゴジラは、この「欲望」のみが肥大化した人間の姿そのものです。確かにかつて、我々はゴジラになりました。3.11、原爆投下はその象徴的な例です。しかしながら、例えゴジラになろうとも、我々は「理性」と「気概」(すなわち「人徳」)によって、再び肥大化した「欲望」を抑えこみ、制御できる力がある、ということをこの映画は主張しています。確かにそのためには大きな試練を乗り換えなければなりません。しかし、我々にはその力が、「好きにする」力があるはずだ。これがゴジラという虚構に対する我々人間の、ニッポンという現実の答えなのです。





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