『シン・ゴジラ』における「ニッポン」の描写について 〜日本を信じるために

『シン・ゴジラ』は大ヒットとなりました。ネットでは「下火のコンテンツだった怪獣映画が、あのPIXARをも抜いた!」とお祭り状態です。私もニッポンの底力を見たようで、かなり嬉しく思っています。

そう、ニッポン。ここで、ちょっと引っかかりました。確かにこの映画は面白いですし、日本映画史に名を残すレベルの作品だと思います。しかし、この映画を「面白い!」と言っている人は、果たしてこの映画における「ニッポン」の描写にどこまで満足しているのか、さらには、この映画で描かれている「ニッポン」が、どこまでリアルなものだと信じているのか。こういうことが、気がかりでなりません。

この映画で描かれる「ニッポン」を、どう受け止めるか。ここをハッキリさせておかないと、ちょっとまずいことになるかもしれません。なぜならば、この映画の「ニッポン」をどう認識するかが、我々の日常における「日本」の認識に直結する可能性が高いからです。

というわけでこの記事では、『シン・ゴジラ』における「ニッポン」は、どんな「ニッポン」だったのか、ということについて書きたいと思います。少々批判的になる部分もあります。それでも、ゴジラブームの熱にあてられず、今一度「ニッポン」について冷静に考えを整理するキッカケになれば幸いです。


↓『シン・ゴジラ』の感想はこちらです。参考までに。


■「リアル」ってなんだ?

この映画が特に力を入れたのは、リアリズムを徹底することでした。ただ、ここで注意しなければいけないのは、何がリアルだったのかということです。

ゴジラを目にしたニッポン政府の描写、行政のプロセス、緊急事態のニッポンの空気......これらは確かにリアルでした。では登場人物は? 独特のしゃべり方をするカヨコ、平泉成演じる大臣、巨災対のメンバー。これらはリアルだったでしょうか。あるいはヤシオリ作戦は? それに至るまでのプロセス、各国の対応は? ニッポンは本当に愛されているのか? 「この国はまだまだやれる」のか?......考えていくとキリがありませんが、どうも「何がリアルだったのか」という問題で、たびたび意見がわかれたり、論争になっているようです。

結論から言いますと、この映画で「リアルだ! リアルだ! 」と言われているのは、いわゆる「リアルシミュレーション」のことです。間違っても、この映画の頭から爪先まで、何もかも現実に即しているというわけではないのです。考えてみれば当たり前で、いくらリアリズムを突き詰めようと、結局はフィクションであり、娯楽映画なのですから、当然「こんなの現実に起こったらオカシイ」なんて部分は出てきます。

リアルシミュレーションというのは、その名の通り、シミュレーション映画としての現実性です。要は、「ゴジラが現代の日本に現れたらどうなるか」を、ひたすらリアルに描写しましたよ、というだけのことなのです(そこが凄いのですが)。従って、例えば「あんなに気概に満ち溢れた、的確で有能な政治家などいない」だとか、「現実ならニッポンは核を落とされてるだろう」とか言うのは野暮なのです。あくまでリアルなのはシミュレーションとしての部分だけなのですから。

というわけで、「リアルだ!」という文句を目にしたら、「あっこれは『リアル(シミュレーション)だ!』の略なのだな」と思っていただきたいです。

■虚構はゴジラだけではない

では、思い切って「この映画のどこが(いわゆる)リアルでないか」ということについて考えていきましょう。

まずわかりやすいのはカヨコですね。「あんなアメリカかぶれのような米国特使はいない!」という声はよく耳にします。私もあの喋り方にウッとなった人です。リアルシミュレーションを邪魔するほどではなかったですが、やはり浮いて見えてしまいました。

ただ、よくよく考えてみると、あの庵野監督がこうなることを予想できないはずがありません。どう考えてもカヨコのあの喋り方は作為的なものだし、むしろ「徹底したリアリズム」を邪魔するリスクがあっても導入せざるを得なかった、と考えるのが普通です。

一応私の見解を述べておきますと、カヨコは逆算的に生まれたキャラなのだと思います。どういうことかというと、つまり「祖母を不幸にした原爆を、この国に3度も落とす行為を、私の祖国にさせたくない」という終盤でのあのセリフを言わせたいがために、カヨコを登場させたのではないかということなのです。この映画において、カヨコはニッポンと米国の中間的な存在として描かれています。そんな彼女が、キャリアを捨ててまで祖国を守ろうとするという熱さ、これを描きたかったのでしょう。つまり、「ニッポンの血が流れている者なら、たとえ国籍が外国にあろうと、そんな『熱さ』を持っていてしかるべきだ」、と言っているのです。そのためには、彼女がニッポンと米国の間で揺らぐ存在であることを際立たせなければならない、しかも人物背景を描かずに。そこで生まれたのがあのルー語だったのではないでしょうか。

ちょっと話が長くなりましたが、要はこの映画における虚構はゴジラだけではなく、そしてその虚構には意味があるということなのです。

何もかもリアルにしてしまうのでは、フィクションの意味がありません。我々はこの映画で何を期待するでしょうか。黙って核を落とされる日本が見たいでしょうか。ゴジラに蹂躙される日本が見たいでしょうか。それを回避するには、虚構という成分を取り入れる他ありません。

つまり、「この国はまだまだやれる」のではありません。「この国はまだまだやれると信じたい」のです。それがこの映画の意義です。どんな窮地に陥っても、諦めず、見捨てず、信じるべきだ。そうすれば、日本という国は、たとえゴジラが来ても大丈夫だ。そうであってほしい。そういう映画なのです。

なんだか、「努力はきっと報われる」という言説と同じレベルの話かもしれません。しかし、結果がどうであろうと、まず努力しなければ何も始まりません。同じように、まず「この国はまだまだやれる」という希望がなければ、何も始まらないのです。この映画を観て、この国はまだまだやれると「信じよう」、と思える気になれば、この映画の役目は果たされたと言えるかもしれません。

■浮き彫りになる「ニッポン」の描写の問題点

さて、この映画の最終目標が「『この国はまだまだやれる』と信じること」だということだとすると、この映画における「ニッポン」の描写不足が浮き彫りになってくるように思えます。

前述のとおり、この映画における「ニッポン」は、大いに虚構成分を含んだものです。ただしそれは、虚構という薬を服用することによって、現実を信じられるようにするためのはからいなのです。逆に言えば、もし虚構を取り入れるならば、それによって現実を信じられるようになるようなものでなければなりません。

では改めて、この映画における「ニッポン」の根底にある虚構成分とは何だったか。それは、「ニッポンはいざピンチになれば、国のリーダーたちが組織的に働き、適切な処置をしてそのピンチを乗り越えられる」ということでした。徹底して日本政府をゴジラの相手として描いていることからも、このことがよくわかります。

問題なのは、このような「ニッポン」の描写で、我々が「日本」を信じられるのかということです。

つまり、「日本」というのは、私達一般人も含まれていなければならないはずです。日本のリーダーたちが問題の直接的な解決を図る一方で、我々一般人は日本を「持ちこたえさせる」役割を担うはずなのです。どちらが欠けても、「この国はまだまだやれる」と言えるだけのポテンシャルは生まれないのです。

しかし、この映画は一般人がニッポンを「持ちこたえさせる」描写がありません。ただひたすら避難したり、パニック状態で逃げ惑う人々の姿が映し出されるだけです。これでは、「日本という国は、一握りの人徳を備えた精鋭さえいればどうとでもなる」という風に捉えられかねません。そうではなく、虚構を取り入れるからこそ、リーダーと一般人が一丸となった、理想的な「ニッポン」を描いて欲しかった、というのが正直なところです。なぜなら、そのような強固な「ニッポン」が描かれ、そしてゴジラに打ち勝つ様が提示されれば、我々は「日本を信じる」ことができるはずだからです。

■巧妙さに酔いしれてはいけない

そうは言っても、この映画は面白い。『シン・ゴジラ』は賞賛に値します。それは、良くも悪くもこの映画が巧妙だからです。

普通なら、「ニッポン対ゴジラ」なんて言っておいて、実際にゴジラと戦うのは国のリーダーだけで、(この映画の一番のターゲットであるはずの)一般国民は逃げ惑うだけですよ、なんてことになれば、不満の声が多く上がっても不思議はありません。それでもこの映画がここまで評価されるのには訳があります。それは、作中で描くべき「ニッポン」の描写の不足分を、我々観客そのものの存在によって補完できてしまっているからなのです。

つまり、「ニッポン対ゴジラ」で謳われる「ニッポン」には、我々観客が含まれているのです。この映画を観ていると、知らず知らずのうちに、我々は「ゴジラに負けるな!」「ニッポン頑張れ!」という「熱さ」を帯びてきます。これがまさに、「ゴジラがニッポンに攻めて来たときの、虚構としての一般国民の描写」として機能してしまい、結果として観客が映画で展開される「ニッポン」にそこまで距離感を感じずにいられるようになっているのです。

しかし、(意図されたものか分かりませんが)この巧妙さに酔いしれているだけではいけません。我々が本当に信じるべきは、すべての国民が一丸となった「ニッポン」であるはずであって、一部の精鋭たちがなんとかする「ニッポン」であってはならないはずです。それは、まさに我々が3.11のときに実感したことではないでしょうか。ミクロな部分での人々の助け合いが、この国を持ちこたえさせ、それがマクロな日本の強さになる。こういう「日本」こそが、我々の求めるものであり、目指すべきものである、いや、そうでなければならないと思うのです。


(2016.8.26追記)

記事公開後のリアクションを見て、ちょっと記事に伝わりにくい部分があったと感じたので追記します。

もっとハッキリ書くべきだったのですが、例えば「一般人の描写をあれ以上増やしたら絶妙なバランスが崩れ、面白くなくなる」だとか、「徹底的にゴジラの相手を日本政府に限定しているのがこの映画のウリだ」とかいうことは、大前提の上での意見です。

私が一番言いたいのは、その「面白さ」や「ウリ」ですら、客観的に見る必要があるのではないかということです。

『シン・ゴジラ』は、あくまで娯楽映画として物語が構成されていることは明らかです。しかし、やはりそういった娯楽要素のみを見るのではなく、「この面白さってなんなんだろう」とか、「これってテーマにそぐうのか」とかいう、メタな視点に立つことは重要だと思うのです。

一番怖いのは、この映画を観て傍観者になってしまうことです。娯楽映画に何言ってんだ、と言われるかもしれませんが、この映画をただの娯楽映画で終わらせるのは惜しい気がします。本当にゴジラが来た時に、自分はどうするか、なんて考えたことはあるでしょうか。そこで、「お偉いさんがなんとかしてくれる」ではまずいと思いますし、ましてやそもそもそういった問題を自分で考えてもみないのは、もったいないと思います。せっかく「リアルシミュレーション」をしてくれているのですから。

そう考えたときに、この映画にはもう1シーンでも、一般人の描写があれば良かったかなと私は思うのです。一般人が主役になるシーンを増やせだとか、一般人側にも重要人物を設定しろだとかは言いません。ただ、政治家の立場からだけではなく、一般人の立場からも「ゴジラに負けるもんか!」と思えるようなシーン1つでも入れるだけで違ったかなと思うのです。それは、たとえ面白さを犠牲にしてもです。

この辺の意見が別れることは仕方ありません。要はトレードオフの問題なのです。テーマ追求を優先すれば面白さが犠牲になり、逆もまた然りです。ある人はあれくらいで十分だと言うでしょうし、またある人はもう少し一般人のシーンがあっても良かったと言うでしょう。それは当然のことで、それぞれの意見があって良いと思います。

私がこの記事で一番問題にしたいのは、そもそもそのトレードオフの問題を認知できるかということなのです。シン・ゴジラを観て、「よくやった、日本人たち!」「よく日本国民を救ってくれた!」「これが日本の底力!」となるのは、エンタメ的には正解でしょうが、テーマ的にはどうでしょうか。そこで一歩立ち止まって、「あえて削られた一般人の描写」についてよく考えてみるのも、この映画においては必要な作業であると思います。あくまでそのきっかけとして、この記事が役に立てばいいなと思った次第なのです。なぜならば、この映画の一番のターゲットは、我々「一般日本国民」であるはずなのですから。



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