サラバ―ズの『文学のススメ』という曲を「受け取る」ために

音楽解釈の記事も今回で5本目になりました。キリが良いので、まずはここらで今までの記事を振り返ってみます。

私がブログで扱う曲は、曲調や年代は多岐にわたるものの、共通する点が1つありました。それは「音楽と歌詞の相乗」です。それは、「曲というのは、音楽だけでも歌詞だけでもダメなんだ」ということであり、言い換えれば「曲において、音楽と歌詞は相補的な役割を担っているべきである」ということなのです。


最初に扱ったのはたまの『電車かもしれない』でした。「音楽と歌詞の相乗」という概念をここで初めて提示するために、「音楽だけ聴いても歌詞だけ読んでも意味の分からない曲」のわかりやすい典型例として選んだ曲だったのです。

次に扱ったのは、サカナクションの『ナイトイズフィッシングイズグッド』です。これも最終的に「音楽と歌詞の相乗」に行き着きましたが、この記事では新たに「音楽体験」ということについても言及しました。それは、音楽を聴くというただそれだけの行為によって、聴き手が自ら新たな世界を構築し、そこへ自分を連れて行くという体験です。そのとき芽生えた感情こそが音楽のもたらす贈り物であり、その最重要性であるとしたのです。

3本目の記事では、初の試みとしてフジファブリックの『赤黄色の金木犀』を、映画『君の名は。』と関連付けることにより解釈しました。ここではいつもの「音楽と歌詞の相乗」というよりは、「何の関連もない複数の作品が、互いの世界を広げあい、互いの価値を高めあうことがある」という事実を提示したのでした。

4本目の記事では、くるりの『Liberty&Gravity』を扱いました。曲としては1本目の記事で扱った『電車かもしれない』と似たタイプの曲で、「サラッと聴くとただのヘンテコ曲なのに、『音楽と歌詞の相乗』を意識して聴くと確固たる世界が浮かび上がる」というものでした。


では今回扱う曲はどんなものかというと、おそらく今までで一番「ロックな曲」です。

The SALOVERSの『文学のススメ』という曲なのですが、百聞は一見にしかず。まずは聴いてみてください。

初っ端からかなり激しい歌詞です。音楽もやはり全体的に激しいロック調で、まさに「ロックだなぁ」と感じる曲だと言えるのではないでしょうか。

ただ、この曲の不思議なところは、そういった激しい言葉・激しい曲調を用いているにも関わらず、どこか繊細な心理が働いている印象があることです。見た目はトガッていても、切実な何かを歌っているように聴こえてならないのです。

このような印象を受けるのは、兎にも角にもこの曲の作りが「正直」なものであるからにほかなりません。拗れて捻くれた複雑な心情を、うまくそのまま曲にパッケージしているのです。

では、歌詞を見ながら考えていきます。



パート1: 退廃への嫌悪


  文学 文学 純文学
  文学 文学 純文学


本曲で繰り返し用いられるこのフレーズ。タイトルにもある通り、曲の核心的な部分です。明らかに「文学」というのはこの曲のキーワードなのです。

とはいえ、現時点ではただそのキーワードを叫んでいるだけです。先へ進んでみましょう。


  拝啓 夜の街 馬鹿な顔した奴らが
  ブスを抱きたくて必死になって口説いてる


情景説明ですが、ここで描かれているのは主に2つです。

1つは、夜の街でチャラチャラ遊ぶ若者の退廃的な雰囲気です。そしてもう1つ忘れてはならないのは、その「退廃」を傍観する主人公の視点です。

文学との関連からか「拝啓」なんてかしこまった感じで始めていますが、後に続くのは退廃的な街とそれを描写する辛辣な言葉……ようは皮肉というわけです。退廃をかなり嫌悪し、見下している主人公の視点が描かれるのです。


パート2: 退廃vs文学

さて、次の一連がこの曲の第一のひっかかりポイントになります。


  ぶっ壊れた日本語だな 言葉の綺麗な子が良い


主人公は「ぶっ壊れた日本語だな」と吐き捨てています。では、これは誰に対してのセリフなのでしょうか。

もちろん、すぐ後の「言葉の綺麗な子がいい」から言って、目の前にいる女の子(ここでは主人公は男であると仮定します)のことを言っていると考えるのは自然です。つまり、あの退廃的な「夜の街」「馬鹿な顔した奴ら」「口説」かれている女の子です。それを見て主人公は、「あんな女はブスだし、言葉も汚い。口説く方も口説かれる方も、ホントどうしようもねぇ奴らだな」と見下している、と考えられるわけです。

なんだ、別にひっかからないじゃないか、と思われるかもしれません。しかし、次の歌詞を見るとそう単純にはいかなくなってきます。


  くそったれーー くそったれーー くそったれーー


意味はすぐわかります。「退廃への嫌悪」をそのまま吐き出しているわけです。

しかし、ここの部分を前の一連と続けて実際に歌ってみると、ある種の違和感が生まれます。


  ぶっ壊れた日本語だな 言葉の綺麗な子が良い
  くそったれーー くそったれーー くそったれーー


つまり、あれだけ「ぶっ壊れた日本語」を非難し、「言葉の綺麗な子がいい」としていた主人公は、そのまますぐに「くそったれーーー」という、自身が一番嫌悪しているはずのぶっ壊れた日本語、汚い言葉の一つを発してしまうのです。

実際、この部分はシームレスに繋がるように作られていて、「言葉の綺麗な子がいい」「くそったれーーー」の間は曲としても途切れていません。従って、主人公が即座に矛盾する行動をしてしまう様子がそのまま読み取れるのです。

となると、「ぶっ壊れた日本語だな」というのは、主人公が自分自身に言っているようにも聞こえてきます。つまり、「拝啓 夜の街 馬鹿な顔した奴らが ブスを抱きたくて必死になって口説いてる」と言っている自分もぶっ壊れた日本語を喋ってるな、と俯瞰しているようにもとれるのです。

ここもまた実際に歌ってみるとわかるのですが、「拝啓〜」の部分を歌った後に即座に「ぶっ壊れた日本語だな」とくるので、やはり「拝啓〜」と言っている自分自身を非難しているように聞こえてならないのです。単純に歌詞を見ながら考えた文脈で考えれば女の子に言っているセリフであるはずなのに、歌ってみると全く違う意味を含むものになるというわけです。それは前述の自己矛盾であったり、それを俯瞰した先の自虐であったりです。

  始発待ちしてたギャルに森鴎外の『舞姫』をススメようと渡したら
  見事に断られた


「始発待ちしてたギャル」なんて、この主人公にしてみれば「退廃」の象徴みたいなものですが、そこに主人公は「文学」の象徴とも言える『舞姫』を渡します。要は対立するものを意図的にぶつけているわけで、「見事に断られた」と言っていることからも、主人公の「なーんだやっぱり」という心情が伺えます。問題はなぜ主人公がこのような行動をとったか、ということですが……それは後回しにするとしましょう。

そしてすかさずこの一連。


  文学 文学 純文学
  文学 文学 純文学


ここまでくると、早くもこの曲のキーワードである「文学」の意味が見えてきます。

まずこの曲の構造として「退廃vs文学」というものがあります。つまり、俗物の跋扈する退廃的な世界を嫌悪する主人公は、自分の中でそれらと対照的な存在である「文学」にすがっているのです。パート1で、退廃を謳歌する者たちへの揶揄に「拝啓」という言葉を用いたのも、彼らの話す「言葉の美しさ/汚さ」を問題にするのも、全て主人公が「文学」を拠り所としているからにほかなりません。

つまり、この曲における「文学」とは、もちろん純粋な意味で用いられているのではなく、いわば主人公の安定剤としての概念なのです。「退廃」に我慢ならない主人公は、その対立概念として「文学」を擁立し、これを「退廃」と戦わせることで自分を保っているわけです。自分は奴らとは違う。自分は「退廃」になど飲み込まれない。なぜなら自分は「文学」を崇拝する人間だからだ。奴らとは人種が違うのだ……。そう言い聞かせながら、自分の気に食わない相手を見下すことで平静を保っているのです。なかなか捻くれていますが、しかしかなり共感できる部分もあると思います。

しかし、主人公は本当に「奴らとは違う」のか。そもそも「退廃vs文学」なんていう安易な二項対立など成り立つのか。その答えは、主人公の感じている「自己矛盾」や「自虐」の部分に表れているように思えます。


さて、まだ前半部であるにもかかわらず、この時点でかなり複雑な心情を素直に描いている技術力の高さが伺えますが、ここからさらに「素直」な心情が明らかになっていきます。


パート3: 自己矛盾


  話題のこの映画の原作はもう読んでた
  前も隣もイカれた痛い男女で
  大事な侘び寂び全部がいちゃつく音で消えた

  くそったれーー くそったれーー くそったれーー


この部分は、パート2で言っていることの繰り返しになっています。「イカれた痛い男女」vs「映画」「いちゃつく音」vs「侘び寂び」。すべて「退廃vs文学」に帰着します。

そして、ここでもすかさず「くそったれーーー」と言ってしまう主人公。なにかを見下していたと思ったら、次の瞬間には即座に自分もその次元に堕ちてしまうという自己矛盾。


  映画館の暗闇で三島の『金閣寺』を落ち着くために開いたら
  燃やせと書いてある


ここでも主人公は文学にすがろうとしますが、この「落ち着くために」というのは、映画館でいちゃつくカップルたちへの苛立ち、すなわち退廃への苛立ちを落ち着かせるために、という意味だけではないと思われます。やはり文脈から言って、自己矛盾を感じてしまうがゆえの焦りを落ち着かせるために、という意味も含まれていると考えられるのです。

しかし、主人公に「燃やせ」と言う『金閣寺』は、そんな彼を落ち着かせるものではありませんでした。むしろ、退廃を嫌悪しながら自分の中にも退廃を飼ってしまっている主人公のある種の狂気を指し示しているようにも思われます。「もう気づいてるんだろ? 無理に本当の自分を押さえつけようとするな。『落ち着』けようとするな。『燃やせ』」とでも言うようです。

ここまでくると、もはや「『馬鹿な顔した奴ら』=『退廃』」vs「『主人公』=『文学』」という単純な二項対立は成り立たなくなってきます。なにせ、主人公の中にも退廃が確かに存在しているからです。

ここに来て、『舞姫』のくだりの意味も見えてきます。仮に、はなから混じり合わない対立概念として「退廃」と「文学」があるのなら、なぜ主人公はわざわざその2つをぶつけるような真似をしたのか。それは、主人公がその2つが混じり合うことを期待していたからにほかなりません。実際、主人公の中ではすでに退廃と文学が混じり合っているわけですから、彼は自分の同類を探そうとしたとも言えます。


  文学 文学 純文学
  文学 文学 純文学


今となっては、この部分も虚しく聞こえてきます。

自分を保とうと無理やり対立概念を生み出すも、当然自己矛盾からは逃れられない。自分でもそれがわかっていて、ある種自虐していながらも、それでも「文学 文学 純文学」と叫んで頼らずにはいられない。自身が重厚であろうとすればするほど、かえって薄っぺらい人間になっていくという矛盾。そんなどうしようもないやるせなさがひしひしと伝わってくるのです。


パート4: 見つめ直す自己矛盾

ここからは一旦曲調が穏やかになり、主人公が瞬間的に自己矛盾に向き合う姿が描かれます。


  人間失格 人間失格 あなたの心は羅生門


『人間失格』も『羅生門』も、自らの暗部に向き合う暗い物語です。


  小学校の担任の先生に褒められた唯一の言葉
  「個性的な作文ね」


「個性的な作文ね」なんて、褒められてるんだかわかりません。自分の中の「文学」要素を引っ張ってきても、こんな残念な記憶しかないわけです。どんどん「文学」という言葉が軽くなっていきます。


パート5: 行き場のない焦燥感


  くそったれーー くそったれーー くそったれーー
  檸檬の爆弾持ってる
  檸檬の爆弾持ってる
  檸檬の爆弾持ってる
  爆発5秒前


ここも実際に歌ってみてください。「個性的な作文ね」から一気に「くそったれーー くそったれーー くそったれーー」と突き抜けていきます。

つまり、もうどうしようもないわけです。「くそったれーー」と叫ぶしかないわけです。『檸檬』は、主人公が鬱屈した心を爆弾に見立てた檸檬で吹き飛ばす妄想をする物語ですが、まさに本曲の主人公も同じ状況なわけです。今にも爆発させたい不安、苛立ち、焦燥感……。そんな行き場のない負の感情を、激しい口調と激しい曲調でただただ叫ぶしかないのです。


  文学 文学 純文学
  文学 文学 純文学


叫びとも嘆きともとれる「文学」という文字が空虚に踊ります。

結局、「文学」は彼を助けてくれないわけです。しかし、それがわかっていてもなお捨てきれない二文字。もしかすると、人は「退廃」と「文学」のような空虚な対立概念をあえて戦わせ、自己矛盾に陥った先の不安定な状態で生きていくことこそがその本質なのかもしれない――「文学のすすめ」というタイトルは、そんなことを言っているのかもしれません。


曲を「受け取る」ために

この曲を語る上でまず外せないことは、「実際に歌ってみる」ことで曲の世界が鮮明に見えてくることです。実際、上記の解釈でも「実際に歌ってみると……」という枕詞を何度か書きました。

この言葉のあとにこの言葉が歌われるタイミング、その際の歌い方、メロディの激しさ、言葉の激しさ。そういったものはすべて「実際に歌った」とき(あるいは「実際に聴いた」とき)に最高の形で連動し、曲が表現されるように計算されています。だからこそ、聴き手はその曲で描かれる複雑な心情であったり、繊細な情景であったりを感じることができるわけです。

実際に歌ってみないと、実際に聴いてみないと意味の分からない曲。それはつまり、曲という形態に最適な表現が与えられているということです。これがまさしく「音楽と歌詞の相乗」であり、私が理想とする曲のあり方なのでした。

逆に言えば、ある曲を実際に歌ったときの感覚だったり、実際に聴いたときの印象だったりは、その曲を受け取る上でかなり重要なものであると言えます。何を当たり前のことを、と思われるかもしれませんが、不思議なことにいざ曲を受け取ろうとすると、我々はこの事実を忘れがちなのです。意味の分からない曲に出くわしたときは、まず歌ってみましょう。聴いてみましょう。自分がそのとき何を感じたかについて考えることが、曲を受け取る第一歩なのです。




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