正直言ってかなり不器用な作品です。「考えるな、感じろ」という語り方をしていることは間違いないのですが、「感じる前に考えてしまう」作りになってしまっています。結果として、「面白い部分もあったけど、結局何の話だったのかよくわからない」というような、それこそ「寝起き」のような感想になりがちです。実際、私もそうなりました。
ただ、本作が何か重要なことを伝えている気がするのも事実です。夢というモチーフと、そこで展開される魔法をめぐる物語。それが全編を通して確かに主人公の現実や物語とリンクしていき、同時に「親子の物語」という小さな物語が、より大きな物語ともリンクしていく構造。不器用ではありながらも、何かを伝えようとしている気がするのです。
従って、今回の感想記事はシンプルに言ってしまえば、この映画を観た後の「何の話だったのか」というモヤモヤに答えを与えたくて書いたものです。本作の「不器用さ」はひとまず置いておいて、あの物語に意味を見出だせるとしたらどのようなものかを、精一杯考えてみようという主旨なのです。というわけで、気を緩めると口から飛び出しそうになる色々な不満は、この記事を書いている間のみは、私も固く封印しておくこととします。
(※注意 ネタバレありです)
〈あらすじ〉
岡山県倉敷市で父親と二人暮らしをしている森川ココネ。何の取り得も無い平凡な女子高生の彼女は、ついつい居眠りばかり。そんな彼女は最近、不思議なことに同じ夢ばかり見るようになる。
進路のこと、友達のこと、家族のこと…考えなければいけないことがたくさんある彼女は寝てばかりもいられない。無口で無愛想なココネの父親は、そんな彼女の様子を知ってか知らずか、自動車の改造にばかり明け暮れている。
2020年、東京オリンピックの3日前。突然父親が警察に逮捕され東京に連行される。どうしようもない父親ではあるが、そこまでの悪事を働いたとはどうしても思えない。ココネは次々と浮かび上がる謎を解決しようと、おさななじみの大学生モリオを連れて東京に向かう決意をする。その途上、彼女はいつも自分が見ている夢にこそ、事態を解決する鍵があることに気づく。
ココネは夢と現実をまたいだ不思議な旅に出る。その大きな冒険の末に見つけた、小さな真実とは…。(引用元)
〈感想〉
■知らないワタシの物語
この映画の正式な題は、『ひるね姫 〜知らないワタシの物語〜』です。この「ワタシ」というのは、言うまでもなく主人公である森川ココネのことであり、従って本作は「森川ココネが自分の物語を発見する物語」であると言えます。物語の柱として、主人公の自己発見のエピソードがあるわけです。
さて、その柱に施された肉付けとして本作ではさらに二つのエピソードが用いられます。一つは自動運転技術という「魔法」を巡るエピソード。もう一つはその魔法を「夢」見た人々のエピソードです。この「魔法」「夢」といった幻想的な要素が、ココネの「ひるね」によって空想的に語られ、これを通して彼女は自らの未来を切り拓いていくことになります。
ここで本作のキモになるのが「夢と現実のリンク」です。ココネのみる夢は突飛なものでありながらも、どこか現実と地続きの感じがあります。実際、夢のとおりに現実が進行してゆき、終盤ではもはや夢と現実の境が曖昧になってゆくのです。いわば、ココネは自分のみた夢に突き動かされることにより、自分の現実を変化させていくわけです。
以上のように本作を俯瞰すると、この物語において「夢」というのは単なるモチーフや物語設定にとどまらず、前述の「重要な何か」に直結する大きな意味をもつ要素であると考えることができます。
■夢物語
「夢」というものに焦点を当てて考えてみると、本作における「夢」はかなりユニークなものであることがわかります。というのも、ココネがみる夢は幼い頃に父親であるモモタローから聞かされた「エンシェンと魔法のタブレット」という物語をもとに構成されているからです。さらに言えば、この物語自体も実は両親の過去の物語であったことが明かされます。つまり、ココネの夢は二つの意味で「夢物語」ではあったものの、100%の空想というわけではなく、むしろ単に両親の過去という現実を「夢」や「魔法」のフレーバーで彩ったものだったということがわかるのです。
前述のように、ココネの夢には「どこか現実と地続きの感じ」がありました。ハートランドという国が舞台で、その王様とお姫様が登場する……というありふれたファンタジー設定にも関わらず、舞台は日本の都市のようなビジュアルで、魔法もタブレットで操作することにより発動します。他にも、毎日通勤で大渋滞が発生していたり、様々なロボットが登場したり……。むしろ国王や姫の装束のほうが浮いている有様です。
それもそのはず。あの夢の正体は、東京でモモタローとイクミの間に紡がれた現実のエピソードだったからです。エンドロールでは「夢」や「魔法」の脚色なしの実際の物語が、答え合わせのように流れていました。
となると、ココネは夢の中で母親に扮することによって昔の父と母の思い出を疑似体験していたことになりますが、ここで注意すべきは、彼女の疑似体験が途中で途切れてしまうことです。物語の主人公が自分ではなく母親であったと知り、夢の中でも母親であるエンシェンと分離してしまうわけです。以降、ココネの夢の中で彼女が扮するのはエンシェンではなく、森川ココネ本人になります。
この理由は明らかで、すなわちエンシェン=森川イクミの物語は、自動運転装置のテスト走行の事故により終わってしまっているからです。エンドロールを詳しく振り返ってみると、映像はイクミが自動運転のテスト走行を行い、事故が起こる直前でココネとモモタローのシーンに移行していました。従って、あのエンドロールは「ココネの夢の正体とはなんだったのか」という答え合わせをする役割だけでなく、エンシェンの夢物語がどの時点でココネに継承されたのかを明確にする役割も担っていたと言えるわけです。
■夢の継承
ここで、「継承」ということばが出てきました。私が考えるに、本作のポイントはこの「継承」というものにあるようです。
この作品の構造に立ち返りましょう。基本軸はココネの自己発見の物語であり、サブエピソードとして自動運転技術という「魔法」の物語、それを「夢」見た人々の物語が混ぜ込まれています。しかし、ココネの夢に現れたどの魔法も、どの夢追い人も空想などではなく、過去の現実に確かに存在したものです。国王に咎められながらも魔法の可能性を諦めないエンシェンの姿は、保守的な父親に反対されながらも自動運転技術の完成を夢見るイクミの姿そのものでした。
結果として、イクミの夢は2020年のオリンピック開会式における自動運転の成功と、ココネの祖父と父の確執の解消という形で成就します。ここで、本作のキモである「夢と現実のリンク」というのが効いてきます。それは「夢は、継承されることによって現実になる」ということです。
現在、当たり前のものとして利用されているどんな科学技術も、それらが発見される前まではまさに「夢物語」でしかありませんでした。そんな夢物語も、寝物語として誰かに聞かせ、継承していくことにより、着実に現実に近づいていく。まさに、「ココロネひとつで人は空も飛べるはず」という思いこそが、何度も人に空を飛ばせてきたわけです。エンシェン=森川イクミの物語は、確かに一度終わります。しかし、彼女の「夢」は消えずに、前述のポイントで確実にココネらに継承されていきました。クライマックスにおける、自動運転技術の発展を阻む障壁の象徴であった「オニ」との戦いは、家族の運命的な戦いであると同時に、継承者たちの戦いでもあったわけです。
この、「夢を夢のモチーフによって描くことにより、逆説的に現実との関連性に落とし込む手法」は、奇しくも現在公開されている『ラ・ラ・ランド』でも用いられています。
↓『ラ・ラ・ランド』の感想記事でもこのことに詳しく触れています。
■ミクロとマクロの交錯
このように考えてみると、『ひるね姫』を「親子の物語」という一側面のみで読み解くのには無理があります。むしろ本質としてあるのは「世代間の物語」であって、そこで継承されていく夢を扱うものであるように思われます。
平凡な若者が家族ぐるみの事件に巻き込まれる過程で、かつては想像もできなかったようなものの命運を変えていく……という運びには既視感を覚えます。まさしく「小さな物語が、より大きな物語とリンクしていく構造」なわけですが、かつて40年ほど前にも同じような映画が製作されていました。
僕は『スター・ウォーズ』(77)に影響を受けて映画監督になりたいと思った人間なので、キャラクターの個人的な物語でありながら、『スター・ウォーズ』のようなことができないか考えたのです。
(パンフレットより神山監督の発言を引用)
神山監督も仰っている通り、『ひるね姫』は明らかに『スター・ウォーズ』の影響を受けています。『スター・ウォーズ』において、ルーク・スカイウォーカーが宇宙の命運を握る戦いという「大きな物語」に身を投じた先に見出したのが、親子の物語という「小さな物語」であったように、『ひるね姫』においてはココネが技術革新の物語の先に親子の物語、ひいては「ワタシの物語」を見出していくのです。
↓『スター・ウォーズ』の物語構造については以下の記事で詳しく触れています。
■「物語」の発見
『ひるね姫』は、ココネの自己発見の物語でした。自身の将来についてはっきりとした考えを持てなかった彼女が、「寝物語」を通じて、母親の継承者としての自分を発見できたのです。
幼い頃に枕元で聞いた他愛のない物語が、その後の自分に大きく影響することがあるということ。それは、忘れてしまった記憶や過去の思い出に「ワタシの物語」を発見するきっかけが転がっているかもしれない、ということでもあります。
自分の周りの小さな物語が、大きな物語を変化させうる。そんなエールを伝えるために、とある映画は「親子の絆」を題材にしました。その40年後、全く違う国の全く違うジャンルの映画で「親子の夢」を題材に同じようなエールが描かれたことに、物語の普遍性というものを感じるのでした。
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