映画『この世界の片隅に』から学ぶ「我々はなぜ生きるのか」

アニメ映画『この世界の片隅に』が公開されて3週間ほど経ちました。動員も順調に伸びているようで、嬉しい限りです。この映画に関しては、「片隅」だけで終わらせてはいけません。

さて、この映画は紛れもなく戦争映画ですが、実際問題それ以上の普遍性を帯びています。その理由は、ひとえにこの作品が「すずさんvs戦争」ではなく、「すずさんvs『日常を脅かすもの』」という姿勢で描かれているからだと思います。

私は上の記事で(事前にお読み頂くことをおすすめします)、この作品は「普通に」生きることの尊さを教えてくれると言いました。そしてその尊さとは、以下のようなものでした。


1. 今を生きることが、連綿と繫がる命の連鎖を生み出してゆく

2. 生きている限り、世界のどこかに居場所を見つけられ、そして自分もまた誰かの居場所になることができる


今回の記事では、この部分をもっと深く掘り下げてみます。従って映画の感想記事というより、この映画を含めたいろんなものを引用して「我々はなぜ生きるのか」という問題に対する答えを見つけていくような、少々論文チックな内容になると思います。

「我々はなぜ生きるのか」。これはまさに究極的な問いです。偉大な先人たちが遥か昔から頭を悩ませ続けてきました。そんなものへのアンサーをこの1記事で書いてみようというのだから無謀にも程があるのですが、しかし、『この世界の片隅に』という作品の素晴らしさが私を勇気づけました。私なりに現時点で導き出せる答えを、どんなに拙い内容になってもしたためておかねばならないという気になったのです。この記事が、「生」というものについてみなさんが考えてみるきっかけになれば幸いです。(本編の核心に触れるネタバレはありませんが、終盤の展開を書いている部分があるので注意です)



■すずさんのケース

『この世界の片隅に』とは、どんな作品だったのか。まずは今一度思い出してみましょう。

あの映画の最大の力点は、主人公のすずさんが絶望に絶望を重ねた状況まで追い詰められ、しかし「それでも生きていく」という選択をして立ち上がるところにあります。この部分を核にして当時を生き抜いた人々を描くことで、「絶望的な状況でも生きようともがく人間の美しい姿」という、戦争云々を超えた普遍的なメッセージを我々に実感させることに成功しているわけです。

しかしこの映画が特殊なのは、その描き方です。具体的に言うと、主人公のすずさんがどん底に落とされてから立ち直るまでにかけられている映画の尺が、非常に短いのです。

展開を思い出してみましょう。まず、玉音放送を聞いたすずさんが家を飛び出し、段々畑でどうしようもない虚無感と怒りと悲しみを感じて嗚咽します。そこで彼女は「死にたかった」とまで漏らしてしまいます。これはもう絶望を表す最大の言葉です。つまり、ここがこの映画における「どん底」であり、すなわちすずさんの「どん底」だったわけです。

しかし次のシーンになると、北條家のお母さんが戸棚から米を出してきて、一緒に食べようとすずさんに言うシーンになります。そこでお母さんはこう言います。

  

  「全部食べたらいけんよ。明日もあさってもあるんじゃけ。


さらに次のシーンになると、すずさんの「8月15日も、16日も。9月も、10月も。10年後も、ずっとずっと。というようなナレーションが入ってくるのです。この一連の流れが非常に特殊で、同時にとても効果的だと感じるのです。

普通、主人公の葛藤や立ち直り(成長)といったものを描く場合、心理描写や何か立ち直りのきっかけを掴むエピソードなどを重ねるなどして、比較的長い尺で丁寧に描きます。それが作品における一番の見所であるならばなおさらです。

しかしながら、あれほどまでにすずさんは絶望しきってしまうのに、この作品はすずさんをそのまま燻らせておこうとしません。次のシーンにはもう「明日もあさってもある」という言葉が彼女に投げかけられ、そして彼女自身もまたナレーションでそのような旨を述べていくのです。

この一連の流れが強調しているのは、「時間の無情さ」ということでしょう。つまり、どれほど怒り狂おうが、泣き叫ぼうが、絶望しようが、明日は来てしまう。誰かが死のうが、戦争が終わろうが、それでも時間は続いていくのです。

その後、すずさんは米をといでご飯を炊き、北條家のみんなと食卓を囲むシーンが映されます。このとき、すずさんの右手が、そっと彼女の頭を撫でるという演出が入ってきます。それはまるで、「もう苦しまなくていい、あなたは生きていていいんだ」と言っているようです。そんなエピソードを経て、最終的に彼女はこう言います。


  「この先ずっと、うちは笑顔の入れ物なんです。


ここまでくると、「死んだ人の分まで笑って、これからも生きていく」という彼女の明確な決意を感じます。ここまでの心理推移の描写もまた見事なのです。

最初は消極的なところから始めます。「死にたかった」と嘆くものの、しかしなんとなく家に帰ると、「明日も一緒にご飯を食べよう」と言ってくれる家族がいる。そこに自分の居場所があるのです。そしていざ一緒に食卓を囲んでみると、なんだか温かい気持ちになって、どこか「赦された」ような気がする。「生きてみようかな」と思い始める。そして次第に「これからも生きていく」という積極的な生への意志を口にするに至るわけです。

「死にたかった」→(時間の無情さ)→「生きてみようかな」→「これからも生きていく」という流れ。この流れが非常に現実味のあるもので、親しみがわきます。無闇に「立ち直りエピソード」のようなものを重ねるでもなく、自分の内側から自然と生きようという気力がわいてくるような、そんな流れになっているのです。ここに普遍性があるわけです。


■消極的な意志

すずさんほどではないにしろ、我々だって、例えば「学校に行きたくない」「仕事をしたくない」「なにもかも面倒だ」なんて思ってしまうことは多々あります。もっと深刻な理由で「死にたい」と思ってしまう人もいるかもしれません。これらを全て一緒くたにして、すずさんのような究極的なケースと並べて語るのは不謹慎だという声もあるかもしれませんが、ここではあえて同列に語ります。それは私が、この映画はすずさんのように極端な絶望に陥った人が立ち直る姿を描くことで、その姿を見た観客、すなわち大なり小なり同じように絶望に陥った人が「希望」を持てるような、そんな普遍的な作品であると思うからです。

これまでに幾度となく「生きるのは辛いなぁ」「なんで生きるんだろう」なんて考えてしまった我々が、今の今まで死なずにいるのはなぜでしょうか。それは、「できれば死ぬより生きていたい」と思うからではないでしょうか。

朝起きると、今日も辛い一日が始まる。そして軽く「絶望」する。しかし、リビングへ行くと「おはよう」と声をかけてくれる家族がいる。「生きてみようかな」と思い始める......。あるいは、何か自分の趣味や生きがいといったものを支えにすることで、「生きてみようかな」と思える人もいるかもしれません。死ぬのが怖いから生きているというのも、消極的であれ立派な生きる理由です。みんな最初は「できれば死ぬより生きていたい」という「消極的」なところから始まるのです。

すずさんの物語は、そんな我々とどこか重なるところがあります。最初から「これからも生きていく」となる人はいません。絶望の大きさにかかわらず、だれだって最初は「生きてみようかな」なのです。そう思わせてくれるのは、日常における小さな喜びであったり、居場所であったり、動物的な恐怖であったり、いろいろです。「できれば死ぬより生きていたい」と思いたい我々は、とにかくそう思えるような理由を探します。そうやってもがきながらもなんとか生きていくうちに、次第に「これからも生きていく」と思えるようになるのです。我々は生きるために、生きる理由をずっと探しています。


■大きな理由

生きるために、生きる理由を探す。つまり、「我々はなぜ生きるのか」という問いの答えは、「生きるため」だというのですが、これは循環論法です。手詰まりになってきそうなので、ここでちょっと視点を変えてみましょう。

冒頭で述べた「生きることの尊さ」のうち、1つ目に着目してみます。つまり、我々が生きるのは、新たな生を生み出し、人類という種を絶やさず繋げていくためだという観点です。まさに自然界の根源的法則、動物の法則です。そしてこのことは、『この世界の片隅に』という作品からも確かに実感できます。

この記事で述べた「地続き」という概念がそれにあたります。あの時代は、今と確かに繫がっているのだという感覚。この感覚を徹底的に刺激することで、「今の我々が在るのも、あの時代を生き抜いた人々がいたからだ」という当たり前の事実を再確認できるのです。それが、「我々はなぜ生きるのか」という問に対する1つ目の答え、すなわち人類という種を絶やさず繋げていくということです。

これは「世代間倫理」という倫理学の分野、特に環境倫理に関わる考え方です。例えば、現代世代の我々が利便性のみを追求して環境破壊をしてはいけないのはなぜか。しきりに「エコ」だの「持続可能性」だのがさけばれるのはなぜか。それは、我々は将来世代に対して「責任」があるからです。今我々が環境破壊をすると、確実に未来の人々が苦しい思いをする。現代世代の我々の行動が、将来世代の「生」に影響を及ぼすという紛れもない事実が、この「責任」の根拠なわけです。

この考え方には、ある前提があります。それは、「人類という種を絶やさず繋げていくことが『善』である」という前提です。世代間倫理なんてものが議論されだしたのも、科学技術の発展によって現代世代の影響力が将来世代の生を脅かすほどまでに大きくなったからにほかなりません。人類が存続しなくて良いのならば、そのような倫理も何も必要ないのです。

この「善」の前提に異議を唱える人は少ないでしょうが、しかし、「我々はなぜ生きるのか」という問いの答えとしては、私はまだ不十分だと思います。それは、これが「世代間」「人類」「種」といったような、大きなスケールで考えたときの答えだからです。


■小さな理由

ここで思い出してほしいのは、我々が「生きる」という選択をするとき、その発端となるのは兎にも角にも「消極的な意志」であったということです。

「死にたい」と思う人が、「いやいや、私は人類という種を絶やさず繋げていかなければならないんだ。だから生きなければならないんだ」なんて考えに至るとは思えません。確かに「人類」という大きなスケールで考えればそう考えるべきなのかもしれませんが、実際問題我々ひとりひとりがそんな「大義名分」を意識することは稀です。この矛盾は、「大きなスケール」と「小さなスケール」から導き出される答えを混同していることによるものです。

改めて、冒頭で述べた「生きることの尊さ」について考えてみましょう。その1つ目は「大きなスケール」から導き出される、いわば「大きな理由」でした。では2つ目は何なのか。これこそが「小さな理由」であり、『この世界の片隅に』が強く我々に提示した答えです。

「我々はなぜ生きるのか」←「生きている限り、世界のどこかに居場所を見つけられ、そして自分もまた誰かの居場所になることができるからだ」。よくよく考えてみると、これは答えになっていません。では、居場所なんて必要ないと思う人は死んでもいいのか、ということになります。立て続けに「ではなぜ居場所が大事なのか」と聞かれたら、「それは生きるためだ」と答えるほかありません。例の循環論法というやつです。

「生きていれば居場所が見つかる」「生きていれば誰かの居場所になれる」「生きていれば何か可能性がある」「死ぬより生きていたほうがいい」......などなど。「小さな理由」としてもっともらしいものはいくつか挙げられますが、しかしそれは結局「生きるため」という循環論法的な答えの表現を変えたものに過ぎません。この映画もそうです。「居場所」という言葉を用いて循環論法的な答えの表現を変えたにすぎないのです。

しかし、我々はこの映画を観て、なにかはぐらかされたように感じたでしょうか。ごまかされたように感じたでしょうか。むしろ、これ以上ないほどの勇気と希望を受け取れたのではないでしょうか。それは、この映画の提示する答えが、まさに100点満点の答えだからです。

すずさんはあれほど辛い思いをしても、それでも「生きる」という選択をしました。その結果、北條家という居場所の中で皆と支え合いながら生きていく未来、孤児の女の子を迎え入れ彼女と共に生きていく未来を獲得できたのです。それは彼女が「生きる」という選択をした「結果」であり、「理由」ではありません。「〜〜ならば、生きる」というようなどんな理由を考えてみても、結局「〜〜」の部分が否定されてしまえば、生きる理由はなくなってしまうのです。

このように、「なぜ」を突き詰めていくと、結局「我々はなぜ生きるのか」に対する「小さな理由」は、一つもないように思えます。しかし、私はこれこそまさに究極の答えだと思うのです。

「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いについて考えてみましょう。これも、もっともらしい理由がいくつか浮かびます。「〜〜ならば、殺すな」という理由が考えられるわけですが、しかしこれには問題があります。つまり、「〜〜ならば」という条件が解消されるような状況になれば、人を殺していいことになってしまうという問題です。このような「〜〜ならば、○○せよ」という命法は仮言命法と言いますが、仮言命法にはつねに反証の余地が与えられるという問題がつきまとうのです。

しかし、我々の共通認識としてあるのは、「人はいかなる理由があっても殺してはならない」というものでしょう。つまり、「〜〜ならば、殺すな」ではなく、「殺すな」なのです。このようなものを定言命法といいます。「なぜ人を殺してはならないのか」に理由はなく、むしろ理由はあってはならないということなのです。それは、仮言命法ではなく定言命法で命令されるべき、言わば生命存在として無条件的に要請される命令だからです。

同じように、「我々はなぜ生きるのか」に理由があってはならないのです。あなたがこの世に生まれ落ちたこと、それ自体が価値あることであり、「善」なのです。「〜〜ならば、生きろ」ではなく、「生きろ」なのです。『もののけ姫』のキャッチコピーがまさにこれですが、あの作品も「とにかく生きなければ何も始まらない。生きている事自体が価値あることだ」というメッセージを備えたものでした。


■「生きる理由」のメカニズム

となれば、一見論理破綻に感じられた「我々は生きるために、生きる理由をずっと探している」というのは、これ以上なく真っ当な姿勢であると言えるでしょう。

最優先されるのは、とにかく生きること。その過程で、時には生きることに疲れたり、なぜ生きるのかと自問自答したりすることがあるでしょう。そんな局面に差し掛かるたび、我々はなにかもっともらしい「生きる理由」を探し、見つけ出し、作り出し、そして欺瞞でもいいから「これからも生きていく」と思い込んで、自分を鼓舞していく。「生きる」という選択をすることを何度も繰り返し、生を全うするのです。そしてその生は、やがて次の誰かの生に繋がっていく。結果として、「連綿と繫がる命の連鎖」が生み出されていきます。

このように、「小さな理由」を突き詰めてゆくと、結局それは「大きな理由」に直結することがわかります。では逆に、「大きな理由」を突き詰めてゆくとどうなるのでしょう。

人類という種が絶えず繫がっていくのは、ひとりひとりの人間が「生きる」という選択をし続けることによります。もちろん、普段我々はそんな「大きな理由」を意識することはありません。自分や、自分の周りの人々と生きていくだけで精一杯です。しかし、そんな「この世界の片隅」に生きる人々の集まりによって、世界は、そして人類は形成されています。「大きな理由」も、突き詰めると「小さな理由」に直結するわけです。

以上のことをまとめると次のような結論が出ます。

「人類は、そのひとりひとりが無条件的・無自覚的に生き抜く『生』によって絶えず繋がっていく。」

至極当然の結論になってしまいましたが、しかし、この当然の事実を我々はしばしば忘れがちです。『この世界の片隅に』は、そんな「大きな理由」も「小さな理由」も、更にはその相互関係も、どちらも確かな「実感」として刻みつけてくれる素晴らしい作品であるといえるでしょう。

もっと言えば、この作品は「なぜ生きるのか(why)」と「どうやって生きていけるのか(how)」の両方を描いた作品であるともいえます。前者は「大きな理由」と、後者は「小さな理由」と対応関係にあるわけです。表にまとめると以下のようになります

「理由はない」というのは、個人レベルで自覚的であるような「小さな理由」はないということです。「大きな理由」に自覚的になれないからこそ、我々は親しみやすく、愛おしいような「小さな理由」を探し続けているのです。そしてもちろん、「大きな理由」と「小さな理由」のどちらが重要であるとか、そのような優劣もありません。なぜなら、両者は互いに密接に関連しており、実質的には同じものだからです。


■おわりに

『この世界の片隅に』という映画を観終わったとき、私はとにかく誰かとご飯を食べたくなりました。そして「生きねば」と思いました。「生きていけるんだ」とも思えました。確かな「実感」として、そう思えたのです。

今回の記事でその「実感」の正体を言葉で説明しようと試みたところ、かなり長くまどろっこしいものになってしまいました。文章にするとこんなに長くなってしまうものを、この映画はとてもわかりやすく、しかし確実に伝えてくれます。

ご飯を食べたくなったという「実感」、それが全てです。我々ひとりひとりがご飯を食べ、今日を生き、そして明日も生きていく。そうした日々の営みこそが人類を、「この世界」を繋いでゆくのです。


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