映画『パッセンジャー』の公開から10日ほど経ちました。私は公開日に観に行ったのですが、そのときの感想がこちらです。
要はガツンと響く感じではなかったということです。ツイートの「薄味」という表現は、今でもぴったりだと思います。
ただ、この「薄味」というのは、決してこの映画が壮大な見た目のわりに小さな物語であることや、全体的に派手さがないことなどに対する評価ではありません。むしろ、それは主人公2人の物語のために壮大なSF設定をも利用する、本作のいわばセカイ系的構造として興味深いものでした。
私が惜しいと感じたのは、その構造をとる際にもっとも重要となる、主人公2人の意志やそこに見出すべき普遍的な人間のあり方、といったものの描写が弱いことです。この作品はほぼ全編を通して「よくある展開」「驚きのない展開」が続くのですが、そういった場合、展開そのものではなく、その展開を推進力として紡がれる物語(この場合主人公2人の物語)で惹きつけていくのが定石です。しかしながら、如何せん本作はその「惹きつけ」のための工夫が足りなかったという印象なのです。これを私は「薄味」と表現したのでした。
ここまで主にマイナスポイントを書いてきましたが、それだけではこの記事は終われません。というのも、この作品が描いたことをよくよく考えてみると、映画として全体的に薄味なのは確かだとしても、しかしその本質的な部分はちっとも薄味ではなかった、という考えが自分の中で膨らんできたからです。
というわけで、今回の記事では『パッセンジャー』の薄味ではない部分、私が「濃厚」だと感じた部分について書き綴っていこうと思います。この物語には、「人と人が関わりあうとはどういうことか」「運命とは何なのか」「人生をどう生きるべきか」という、極めて大きな問題の答えが隠されていたように思えるのです。
〈あらすじ〉
近未来、5,000人を乗せた豪華宇宙船アヴァロン号が、人々の移住地に向かうべく地球を出発。到着までの120年、冬眠装置で眠る乗客のうちエンジニアのジム(クリス・プラット)と作家のオーロラ(ジェニファー・ローレンス)だけが、予定より90年も早く目覚めてしまう。絶望的な状況を打破しようとする二人は、次第に思いを寄せ合うものの、予期せぬ困難が立ちはだかり……。(引用元)
〈感想〉
(※以下ネタバレ注意)
■シンプルなコーティング
本題に入る前に、そもそもなぜ「濃厚」な内容を扱っているはずの本作が「薄味」であるように感じてしまうのかについて考えてみますと、それはひとえにこの作品が色んな意味で「シンプル」なものであるからだと思います。
まず設定が極めてシンプルです。宇宙船に男女2人というのは、先のツイートでも述べたとおり、要は「無人島に男女2人」という思考実験的状況に置き換えられます。そこで発生する問題に2人が立ち向かう姿や、表出する人間心理を描く……というよくある設定なのです。実際、ストーリーにもほぼひねりはなく、「驚きの展開!」みたいなものもありませんでした。
そして更にビジュアルのシンプルさ。宇宙描写に特筆すべきことはなく、船内のデザインやシステムの描写も、いくつか面白いものはあっても、それ自体を目立たせるような作りにはなっていないので、結局は単なる背景止まりになります。やはりこの作品が強調したいのは主人公2人の物語なのです。
そしてこれらのシンプルさを強調するのが主演であるジェニファー・ローレンスとクリス・プラットの2人です。作品全体がこの2人の純粋さというか、優等生感というか、透明感に包まれているので、なおさら引っかかりがなくなります。従って、そこでいかに濃厚なものを提示していようと、観客はサラーッと観ることができてしまい、気付けばエンディングになっていた……ということになりやすいのではないでしょうか。
しかし、これは本作の核に当たるものが極めて濃厚なものであることの裏返しとも言えます。前述のように、本作における諸々のシンプルさは、その中心にある主人公2人の物語を極限まで際立たせるためのものであるからです。従って、例えばSF映画の壮大な感じがないとか、展開がご都合主義的だとか、クライマックスにも派手さが足りないだとかいうのは、そもそも本作に求めるものではないということになります。なぜなら、この映画における宇宙も宇宙船も宇宙旅行もハプニングも何もかも、2人の物語を描くための道具でしかないからです。この映画がはなから力を注いでいない部分であるといえます。
■歪な関係
「2人の物語」と何度も言っていますが、ではそのどこに濃厚なものがあったのか。思い返すと、あのシンプルな物語において、一つだけ「えっ!?」となる出来事があったはずです。それは「ジムがオーロラを起こしてしまう」というものでした。
ここで注意すべきは、「ジムがオーロラを起こした」という事実は、物語のかなり序盤に観客に明かされるということです。例えば、終盤で初めてジムにこの事実を打ち明けさせて衝撃を与える……というような構成にもできたはずなのに、そういう作りにはなっていません。これにより、観客はジムと同じ不安感や居心地の悪さを終始感じるようになります。そして、この歪さこそが本作のキモであると考えられるのです。
その後の展開から言っても、「ジムがオーロラを起こした」という出来事を軸にドラマが形成されているのは明らかです。更に言えば、この映画で2人に降りかかる最大の試練というのはクライマックスにおけるハプニングではなく、ジムとオーロラがその関係の歪な出発点にどう向き合うかというところにあるのです。
そのことが象徴的に表れているのが、まさにジムがオーロラを起こすシーンです。このシーンは『眠れる森の美女』のような、いわゆる王子様とお姫様の関係を想起させますが(実際、「オーロラ」という名前は『眠れる森の美女』の「オーロラ姫」からでしょう)、ここにはある対照関係があります。つまり、『眠れる森の美女』においてお姫様は王子様に起こされることで人生を救われるわけですが、『パッセンジャー』ではお姫様が王子様に起こされることで人生を奪われるのです。『眠れる森の美女』の負の側面を徹底して描いたのが『パッセンジャー』である、とも言えます。いずれにせよ、この作品の出発点は2人の歪な関係なのです。
■エゴという名の愛
では、彼らの「歪な関係」を更に詳しく見ていきましょう。ジムがオーロラを起こしたのは、自分を孤独から救うためであり、すなわち100%のエゴです。それも、自分がオーロラを起こすことは「許されないことだ」という自覚を持った上で決断しているのですから、もうこれは完全に倫理に反した行為として描かれています。実際、オーロラはこの事実を知った際に「殺人と同じ行為だ」と激昂します。
厄介なのは、この歪さと同時に「2人の間に愛が芽生えた」という事実も、同じくらい確かなこととして描かれていることです。いわばエゴから始まる愛、殺人から始まる愛なのです。
また、これが思考実験の映画であるということも忘れてはいけません。つまり、この映画では「自分がジムの立場だったらどうするか」「自分がオーロラの立場だったらどうするか」を考えることが重要になってきます。そういう姿勢でジムの行動について考えると、これが非常に共感できる作りになっているのです。
例えば、ジムが孤独に苛まれていく様は非常に丁寧に描かれますし、オーロラを起こすかどうかの葛藤も生々しく描かれています。その観点からいえば、バーテンダー型ロボットのアーサーは、ジムの孤独や彼の極限の心理状態を非常に上手く映し出しています。すなわち、「あんな状況になれば人は機械にすら温かみを求めるようになる」という描写を入れることで、観客もジムの置かれた状況をイメージしやすくなるというわけです。(ここで一つ言っておきたいのは、これは男女を入れ替えても完全に成立する話だということです。もちろん、設定上どうしても「男が女を起こす」というシチュエーションとして映ってしまい、男性はジムに、女性はオーロラに肩入れしやすくなります。『眠れる森の美女』のイメージもそれを助長するかもしれませんが、しかしこの話はそういった従来の「王子様とお姫様」の物語に対する別のアプローチであり、一種の皮肉であると考えれば良いかもしれません。)
このように考えると、確かに2人の関係は歪なものであるとはいえ、我々から全く遠いところにある話でもないということが言えると思います。むしろ、「極限状態においては、人は本来的に他者を求めるものである」という紛れもない事実が実感できるような気すらします。ジムの行為もオーロラの激昂も、どちらも否定できないのです。
■日常に潜む殺人
壮大なSF映画に見えて、その内実は非常に個人的で卑近な物語である『パッセンジャー』。上で見てきたように、ジムとオーロラの関係を突き詰めていくと、そこには人間存在に関する2つの重要な要素が浮かび上がります。1つは「人は本来的に他者を求める」ということ。もう1つは、その他者が「一方的な暴力によって獲得される」ということです。
何度も言うように、ジムはオーロラを自分のために起こし、彼女の人生を大きく変化させてしまいます。このときオーロラは睡眠状態にあったため、ジムの行為を防ぐことができません。従ってこれはジムの一方的な暴力とも言えます。2人の間には疑いようのない力関係が存在するのです。
ジムのしたことは「許されない」「ひどい話」だということは誰の目にも明らかですし、実際劇中でもそのように評価されています。しかし、ジムの行為を「罪」というならば、我々は皆本来的にその罪を背負った生き物であると言うほかないでしょう。
この件に対する本作のスタンスが最も如実に表れているセリフとして印象的なのが、ガスのセリフです。彼はジムの行為に憤慨するオーロラにこう言います。「ひどい話だが、溺れる者は藁をもつかむのだ」と。注意すべきは、彼は決してジムの行為を正当化しているわけではないということです。善か悪かをキッパリ判定するというより、むしろその判断をせず淡々と事実を述べているように思えます。「許されない」というのも事実だし、「溺れる者は藁をもつかむ」というのも事実なのだ、と言っているわけです。これはまさに先程述べた「ジムの行為もオーロラの激昂も、どちらも否定できない」というスタンスです。
つまり、この作品が言おうとしているのはこういうことです。「我々は本来的に、他者に暴力を振るい得るのだ」と。もちろん、この「暴力」というのは言葉通りの意味ではありません。それは言わば倫理的暴力であり、自らの自分本意な行為によって他者の人生を一方的に変化させてしまう、ということなのです。
ジムとオーロラの関係は、「人と人が関わりあう」ということを極端に突き詰めてモデル化したものであるといえます。劇中でもジムが述べたように、彼は「無人島で一人きり」の状況になり、一個人が他者を求める究極的なシチュエーションに放り出されるのです。
宇宙旅行のトラブルが原因で死ぬまで船内に一人きり。そこで他人の人生を奪ってまで自分を救う……だなんて、我々の想像を遥かに超えた世界の物語であるかのように思えます。それでもどこか他人事の気がしないのは、それが我々の日常と地続きである本質的な何かを確実に描いているからです。それこそがまさに「人と人が関わりあう」ということなのです。
本作のジムとオーロラのレベルまではいかなくとも、誰かと関係を持つということは、その誰かの人生にいくらか影響を与えるということになります。自分のした何気ない行為が、他人の人生を変えてしまうということは、我々が意識しないだけで普段から頻繁に行っていることなのです。その極端なケースとして、「ジムがオーロラの人生を、100%のエゴで意識的・一方的に変化させる」というシチュエーションが描かれたわけです。
実際、程度の差こそあれ、「誰かの人生を自分のエゴで意識的・一方的に変化させる」ことなんて多々あります。例えば、親が自分の小さい子供に習い事をさせるというのは、親のエゴなのかそうでないのか、意識的・一方的に子供の人生を変化させることに繋がらないのか、という問題は一考に値します。あるいは、好きな相手に熱烈なアプローチをかけるというのはどうでしょう。また、これらの行為は「殺人と同じ」なのでしょうか。
きっぱり断言しておきますが、これらの行為が完全にジムのした行為に置き換えられるなどとは思いません。私が言いたいのは、人のするどんな行為も「ある程度」ジムのした行為に通ずるところがある、ということです。現実においては、ある人がある人にした行為の何%がエゴで、どの程度それに意識的で、そしてどのくらい一方的な要因を含んでいるかなんて、正確に割り出すことなどできないのです。
■結果としての運命
我々は他者と関わりあうとき、多かれ少なかれ必ずその人に「暴力」をはたらくことになる。これは残酷な事実であるように思えますが、この作品はその事実をただ提示するだけで、肯定も否定もしてくれません。「君たちが普段していることを突き詰めるとこうなるんだよ」と、ただただ意地悪く囁いているように思えるかもしれません。
しかし、この作品はあるもう一つの事実を提示しているように思えます。それは、「結果としての運命」ということです。
ジムとオーロラのケースに立ち返って考えてみましょう。確かに彼らの関係は「暴力」行為に端を発しており、歪なものであるといえます。しかし、結果として彼らは偉業を成し遂げたということを忘れてはいけません。つまり、ジムがトラブルで目覚めなければ、そしてジムがオーロラを起こさなければ、2人どころか宇宙船の乗客5000人は皆死んでいたのであり、その困難を乗り越えた2人は、互いに運命の相手となり、船内に一つの文明を築くことになったということなのです。
これは何を意味しているのでしょうか。きっかけがどんなに歪なものでも、それは偉業を成し遂げるという運命の歯車に過ぎなかったということでしょうか。「終わりよければ全て良し」ということでしょうか。私はちょっと違うように思います。
ここで思い出してほしいのは、この作品は善悪判断をしないということです。できない、といったほうが正しいかもしれません。つまり、ただ2人は結果として宇宙船を救ってしまったし、結果として互いに運命の相手になってしまったし、結果として一つの文明を築き「素晴らしい人生」を獲得してしまった……という描き方をしているのです。
もともとオーロラは「史上初めて宇宙に移住したジャーナリストになる」という偉業を成し遂げるために宇宙船に乗りました。そんな彼女に、彼女の友達が送ったメッセージはとても印象的です。それは、「偉大なことを成し遂げなくても、幸せにはなれる」というものでした。
オーロラの当初の夢は絶たれてしまうわけですが、しかし結果として彼女はジムとともに宇宙船を救い、船内に小さな文明を築くという偉業を成し遂げます。ここで重要なのは、これらの偉業はオーロラが意識的に成し遂げようとしたものではないということです。ただ自分の置かれた状況で人生の一瞬一瞬をよりよく生きようともがいた「結果」、偉業を成し遂げてしまったのです。これは、アーサーの言った「今を楽しめ」というアドバイスにも繋がってきます。
振り返ってみると、『パッセンジャー』の物語自体がジムとオーロラのために仕組まれた運命的な物語であるように思えます。しかし、その考え方には必ず「振り返ってみると」という枕詞がつくはずです。つまり、「あの出来事は運命だった」などという判断は、その出来事を後から振り返って、その結果を知ることができない限りなされ得ないということなのです。これこそが「結果としての運命」であり、本作が明確に描こうとしたことなのです。
■素晴らしい人生
我々が他者にはたらき、他者からはたらかれる「暴力」。それによって人生の目標は理不尽に奪われ、偉業も達成できなくなる……。現実ではそんなことが必ず起こるし、ある種それは仕方のないことなのだ、とこの作品は主張します。
そんなどうしようもない人生を、我々はどう生き抜くべきか。大切なのは、「今を楽しむ」ことです。意識的に偉業を成し遂げようとするのではなく、結局はその時その時を精一杯生きるしかないのです。未来の自分がそれまでの人生を振り返って、「あれは全て運命だったのだ」と思ってくれるかどうか、「結果としての運命」を受け入れてくれるかどうかは、今の自分の行動にかかっているのです。
「今を楽しむ」――そうすれば、今までの人生を許せるときが来るかもしれません。最後に「素晴らしい人生」と言えるときが来るかもしれないのです。
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