『ローグ・ワン』はスター・ウォーズの再定義と拡張の物語である

正直言って、私はこの映画をどう評価しようか非常に悩んでいます。

単体の映画として見ても、『スター・ウォーズ』のスピンオフとして見てもどこかしらお粗末な部分があるのに、この映画がやりたかったことや、作品の本質的姿勢をひとたび顧みると評価が何十倍にも高くなってしまうという非常に面倒くさい作品なのです。

というわけで、今回の記事ではかなりメタな視点での感想を書きたいと思います。

すなわち、


①単体の映画として見たときの感想
②スピンオフとして見たときの感想
③作品の「意図を汲んだ」感想


を全て書きってしまいたいと思います。視点によって作品の評価が揺れ動くので、いっそのこと全視点でこの映画を評価してしまえという開き直りの記事です。(※作品のネタバレはほぼありませんが、オープニングに触れている部分があります。)


映画ブロガーのヒナタカさんとこの作品について熱く語ったラジオです!前半はネタバレ無しなのでぜひ聴いてみて下さい↓



〈あらすじ〉

物語の舞台は、『スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望』の少し前。 銀河全体を脅かす帝国軍の究極の兵器<デス・スター>。無法者たちによる反乱軍の極秘チーム<ロ―グ・ワン>に加わった女戦士ジン・アーソは、様々な葛藤を抱えながら不可能なミッションに立ち向かう。 その運命のカギは、天才科学者であり、何年も行方不明になっている彼女の父に隠されていた・・・。(引用元)



〈感想〉

①単体の映画として見たときの感想

→非常に不親切だ!!!

この映画、『スター・ウォーズ』のサーガ(EP◯)を観ていることが大前提になっています。

もちろん、観ていなくても「何が起こっているかわからない」ということはありません。話自体はとてもシンプルで、要は「銀河を牛耳る帝国軍とそれに反旗を翻す反乱軍の戦争時代に、反乱軍の一味がデス・スターという究極兵器の設計図を盗む話」なのです。

しかしながら、話の内容が「理解できるか」とそれを「楽しめるか」は全く別の問題です。率直に言うとこの映画、少なくとも『スター・ウォーズEP4 新たなる希望』を観ていて、なおかつその内容の記憶がないとあまり楽しめません。

確かに、終盤の「スター・ウォーズ=星間戦争」の見ごたえはあります。むしろこれまでのSW作品では随一の迫力であると言っていいでしょう。しかし、逆に言えば際立った魅力はそれくらいです。むしろ、単なるドンパチ映画として観るにはノイズが多いのです。例えば、主人公ジンとその父の親子関係が中途半端にフォーカスされたり、仲間内でのイザコザが多かったり、その割にはキャラのバックグラウンドの掘り下げが甘かったり、「ローグ」達が結託する理由が見えなかったり......。そもそも、肝心の「ドンパチ」にたどり着くまでの時間が長いというのもあります。

「副題の示す通り、そもそも『スター・ウォーズ』のスピンオフなんだから、単体の映画として評価する方がおかしい」という意見も最もです。これについては、私が以下のツイートに書いたような価値観を持っていることが関係します。

それが如何に偉大な作品の続きモノであろうと、単体の映画としての魅力がないと作品の「力強さ」はありません。長い時間と莫大な費用をかけて制作するからには、「ファンのための映画」以上の何かを含んでいてほしいものです。特に、『ローグ・ワン』は『EP7』と同じく「年に1本SW映画」というスローガンのもとに制作された作品で、シリーズの新規ファンを獲得しようという意味合いもあります。こういった作品の場合、なおさら「単体の映画としての魅力」には神経質になっておかないといけないと思うわけです。もちろん、「この映画を『本当に』楽しみたい!」という思いからSWを観始める人なら多いと思いますが、そういう導入の仕方はどうなんだろうとも思います。

さて、ここまでだとただの酷評記事になってしまいますが、この映画はそうはさせてくれません。このマイナス部分の大きさに相当する大きな魅力があるのもまた事実だからです。「シリーズの復習が大前提である」ということは、逆に言えば過去のSW作品を観ていたら非常に楽しめるということです。この部分についても触れないとフェアではありません(これについては②の項で書きます)。

そしてさらに言えばこの作品、作り手の意図や姿勢に讃えるべき点があるのです(③の項で書きます)。



②スピンオフとして見たときの感想

→「スピンオフ」の必然性に溢れた作品

『ローグ・ワン』というタイトルには様々な意味が込められています。「Rogue=ならず者」たちが結託する物語。ずっと一人で生きてきた「Rogue=一匹狼」の主人公ジン。『EP5』では「ローグ中隊」という部隊が登場します。

ここで重要なのは、そもそもこの作品がSWのサーガから外れたスピンオフであることを示すタイトルでもあるということです。実際、映画の内容はスピンオフという立ち位置をフルに活かしたものとなっています。

まず、冒頭でこの映画のスタンスが示されます。SW恒例のオープニング・クロールが存在しないのです。まるで「この物語は、SWの歴史に名が残らない者たちを描くものですよ」と宣言しているかのようです。ストーリーも『EP4』の「開始10分前」までを描くもので、特に終盤ではその「接続」の部分が強く描かれており、スピンオフ作品ならではの感慨があります。映画の全体的なテイストは、これまのSW作品特有のカラッとした陽気なものではなく、むしろリアルな戦争映画としての側面、泥臭く生々しい雰囲気が強調されています。これも、スピンオフだからこそ受け入れられることです。

このように、『ローグ・ワン』はスピンオフ色がかなり濃いのですが、ここで特筆すべきはその「濃さ」に必然性があることです。

まず一つは、この映画はサーガとは異なり、末端同士の争いを描くものだということです。帝国軍側はデス・スターの現場責任者クレニックを中心に描かれ、反乱軍側はフォースを操る能力を持たない名も無き戦士たちをメインに描いています。従って、銀河皇帝やダースベイダー、オビ=ワンやルーク、レイアなど、双方の「トップの部分」はほとんど出てきません。

「末端同士の争い」にフォーカスするということは、本編である「英雄譚(サーガ)」とは異なり、物語が我々にとってより卑近なものになるということです。ジェダイやシスのような銀河の大きな物語を動かす人物ではなく、そこで活躍するのは皆我々のような一般人だからです。従って、作品のテイストがよりリアルで、生々しいものになるのは必然と言えます。これが必然性の一つです。

では、なぜ「卑近」な目線でSWの物語を捉え直したのでしょうか。これは、物語の再定義ということに関わってきます。

『EP4』のオープニング・クロールに、「反乱軍スパイは帝国の究極兵器の秘密設計図を奪うことに成功する」という一文がありますが、『ローグ・ワン』を観る前と後とでは、この一文の重みが変わってきます。もっと言えば、SWの正史そのものの重みが変わってくるのです。

例えば、AT-ACTが襲い来るシーンではその巨大さに怪獣のような恐ろしさを感じます。ジェダでの戦いは現実の紛争地域におけるテロのようですし、デス・スターの描写は核の脅威を思わせます。そして、ここぞというときに圧倒的な力を見せつけるダースベイダーを筆頭とする帝国軍の冷酷さ......。「反乱軍vs帝国軍」「ジェダイvsシス」といった、スケールの大きい英雄譚的な物語の姿勢を突き通すサーガでは実感として伝わりづらかった部分、すなわち当時の閉塞的な空気であったり、絶望の根拠であったり、「希望」の必要性であったりを見事に伝えることに成功しているのです。

これが「再定義」ということです。つまり、何十年も前に語られた物語を新たな視点で語り直し、その深みや重みを増すことで、SWという物語をより強固なものにしたのです。スピンオフ作品にありがちな、取ってつけたような後出しの「説明」や「接続」ではなく、偉大な物語に貢献するという大きな「目的」を志向した作品なわけです。

以上のように、今作は「スピンオフ」の必然性に溢れた作品であると言えるでしょう。それは、単にスピンオフならではの作りをするというだけではなく、確固たる目的と意義を意識して、そのために必要な語り口で物語を語ったということなのです。


ただし、この「『スター・ウォーズ』のスピンオフ」という観点から言っても大絶賛というわけにはいかないのも事実です。というのは、往年のファンからしても、終盤の「接続」や「再定義」の部分にしか盛り上がりのポイントがないと感じることが多いようだからです。①の視点で述べた「ノイズ」の部分が、②の視点でも依然として「ノイズ」として映りかねません。

事態が複雑なのは、作り手の意図を汲んでみると、この「ノイズ」の部分をあながち否定できないことです。この映画の前半ではジンの親子関係をフォーカスしたり、「ローグ」たちのバックグラウンドを示唆したりすることに注力しています。冷静に考えると、それらにこれだけの尺を使うということは、作り手にとってはそれが「ノイズ」ではなくむしろ大きな意味があったということです(当たり前ですが)。そして実際に『スター・ウォーズ』という作品を振り返ったとき、その大きな意味が分からなくもないのです。これが③につながっていきます。



③作品の「意図を汲んだ」感想

何度も言うように、『スター・ウォーズ』は英雄譚です。それはフォースを操る能力に長けた一族の話で、根幹にあるのは親子や師弟の「小さな物語」です。

こう考えると、所詮は「選ばれし者」の話であるように思えます。『ローグ・ワン』を「卑近」な物語であると言ったように、SWのサーガは我々から遠いところにある物語であるように感じられるかもしれません。

しかし、SWとはその真逆の物語であると私は思うのです。つまり、自分たちとはかけ離れたヒーローの物語ではなく、むしろ「誰しもヒーローになれる」という話だと思っているのです。

SWはタイトルの示す通り宇宙における戦争を描いています。しかし、このシリーズがこれほどまでにヒットし、ある種伝説的な作品となったのは、それがただのドンパチ映画ではないからでしょう。SWのユニークな部分の一つには、親子や師弟といった世代間における「小さな物語」が、実は銀河を舞台にした「大きな物語」の根幹を成している構造というものがあります。ここによく言われる「神話性」があり、シリーズをただのドンパチ映画にしない深みを与えていたわけです。

シリーズの主人公であるアナキン・スカイウォーカーは奴隷の子でした。旧三部作の主人公ルークも広い世界を夢見る田舎の星の青年であり、『EP7』以降の主人公となるであろうレイもルークと似た境遇でした。そんな彼らが率先して「大きな物語」へと参加し、喪失の果てに自らの能力に目覚めてゆく姿には夢と希望があります。自分の周りにおける「小さな物語」が、銀河をも突き動かしていく。そこで重要となるのは「フォース」であり、それは銀河を結びつけ、いつも側にあり、存在が不確かながらも信じることで確かな力を発揮するものです。これはすなわち「自らを信じる力」そのものなのです。大宇宙の神秘的な力が、結局個人の意志や心の強さに還元される。ここに、我々への「エール」があるわけです。

今作の監督であるギャレス・エドワーズ氏も、こんなことを仰っています。


  「たとえば父と子、あるいはオビ・ワン=ケノービのような師匠とその弟子といった、ひとつの世代とその次の世代との間の個人レベルでのつながりの物語でもあって、シェークスピア的ともいうべき深淵で神話的な要素が含まれていると思います。本作で『デス・スター計画』の文書を盗み出すというストーリーを扱う上においても、そこに家族関係の要素を入れたいと思いました。」(引用元)


今作の「ノイズ」は、この神話性の部分でした。より正確に言えば、「神話」になりきれていなかったところに問題があります。ジンの親子関係や、「ローグ」たちのバックグラウンドといった「小さな物語」を描くのは当然として、その描写が圧倒的に足りていなかったし、「大きな物語」へのなじませ方もイマイチではありました。結果として、SWという作品においてなくてはならない要素が、かえって「ノイズ」のように感じられてしまうという矛盾した事態を引き起こしています。

しかし忘れてはならないのは、この作品がスピンオフであるということです。確かに、『ローグ・ワン』も何部作かにして神話性を強めれば、物語の完成度は上がったかもしれません。しかし、SWの「正史」における主人公はもう決まっているのです。それ以外の名も無き人々は、あくまでも名も無き人々のままでいなくてはならないのです。それは、ルークやダースベイダーら以外を脇役と見なしたいからではなく、SWのサーガがあくまでも数ある歴史のうちの一つでしかないという拡張性を強調するためです。今作のキャッチコピーにもある通り、これは「もうひとつの、スター・ウォーズ」なのです。陰に隠れた歴史というよりは、「もうひとつの歴史」なのです。

今作は、SWの裏であの物語に匹敵する一人一人の壮大な物語があったことを示唆してくれます。あのルークだって、名も無き戦士たちの活躍がなければ銀河を救えなかったはずなのです。

もっと言えば、SWで描かれるどの物語も、「遠い昔、遥か彼方の銀河系」の話に過ぎません。スピンオフであるためオープニング・クロールはカットされたものの、「A long time ago in a galaxy far, far away」は残されていたことにもその事実を見てとることができます。

「誰しもヒーローになれる」。それは、今作における「フォース」というものの描かれ方によく表れています。サーガにおけるフォースは、ライトセイバーを操れたり物体を浮かばせたりできる超能力という側面が強かったのですが、それはあくまでも彼らの物語におけるフォースです。フォースの根源とは銀河を結びつけるエネルギーで、それは自分に秘められた何かしらの能力のメタファーなのです。『ローグ・ワン』に登場する人々は、フォースを使えない「持たざる者」なんかではなく、ルークらとは別種のフォースを持つ者なのです。そう考えると、フォースの存在を愚直に信じ続けたチアルートが最後に起こしたあの奇跡も、ただの奇跡以上の意味を帯びてくるようです。それは、SWという作品におけるフォースの意味を「卑近」な目線から再提示したということなのです。



以上、長々と感想を書いてきましたが、いかがでしょうか。私にとって、この映画は見方次第で0点にも50点にも100点にもなる、そんな困った映画でした。でも、観てよかったと思います。

最後に、再びギャレス・エドワーズ監督の言葉を引用して終わりたいと思います。


  「私が『スター・ウォーズ』から得て大事にしているのは、『信じ続ければ、夢はかなう』というメッセージです。それを受け止めたことが、いまこうして『スター・ウォーズ』を監督する機会につながったと思っているので、本作でも自分より若い世代のために『状況がどんなにひどく思えても、希望を捨てるな。努力を重ねれば、きっといいことが起こる。どんなに抑圧されても、自分の信じるものを信じ続けろ。そこから道は開かれる』というメッセージを伝えられればいいな、と考えました。『スター・ウォーズ』の魔法は、そういうところにあるのだと思っています。



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