映画『カメラを止めるな!』は、上田慎一郎監督によるインディーズ映画です。
結論から言うとこの作品、エンタメ作品としても、物語としても、そしてなにより「映画」としても巧みとしか言いようがない作品になっています。とにかくエンターテイメントとして面白く、そしてその面白さは普遍的な物語を伝え、「映画のマジック=人生における希望」を信じさせてくれるのです。
鑑賞時の驚き、面白さ、気づき、発見、ライブ感……といったものがそのまま作品の本質に関わってくるので、数ある映画作品の中でも特にネタバレ厳禁な作品となっています。本記事では『カメラを止めるな!』という作品の「巧みさ」について考えていきますが、必ず作品をご鑑賞なさってからお読みください。
〈あらすじ〉
とある自主映画の撮影隊が山奥の廃墟でゾンビ映画を撮影していた。本物を求める監督は中々OKを出さずテイクは42テイクに達する。そんな中、撮影隊に 本物のゾンビが襲いかかる!大喜びで撮影を続ける監督、次々とゾンビ化していく撮影隊の面々。 ”37分ワンシーン・ワンカットで描くノンストップ・ゾンビサバイバル!”……を撮ったヤツらの話。
(公式サイトより引用)
〈感想〉
※以下、ネタバレ注意
■エンタメ作品としての巧みさ
この映画の最大の特徴は、「映画を撮る」という行為が入れ子構造で示されることです。
冒頭37分のワンカット映画ではゾンビ映画を撮るチームが描かれていますが、その舞台裏を見せる後半部分ではさらにその作品を撮るチームが描かれます。この構造により、観客は同じシーンを異なる視点から眺めることになり、「ああ、あれはそういうことだったのか」という気づき・発見の面白さを体感できます。いわば「映画で映画の伏線を張る」という前代未聞の試みをしているわけです。
ただ、この作品がとてつもないのは、そうした伏線回収による気づき・発見の面白さが、そのまま作品のテーマを伝える役割を担っていることです。すなわち、本作は単に「よく出来たコント」では終わらない、映画でしかできない表現で何かを伝えるという「物語」にちゃんとなっているのです。
作品の構成を振り返ってみましょう。本作は主に三つのパートから構成されています。
第一幕:ワンカットゾンビ映画『One Cut of the Dead』
第二幕:ワンカット映画を取るまでの前日譚
第三幕:ワンカット映画の舞台裏
まず観客は、初っ端から『One Cut of the Dead』を丸々観せられます。これが手作り感満載なんですが、何しろワンカットですからそれなりに見応えがありますし、小道具を使ってちゃんと「ゾンビ映画」の体裁に落とし込んでいるので、観客は「あーそういう映画ね」と勝手に納得してしまいます。もちろん、本作自体がインディーズ映画であることによる先入観が手伝っているのは言うまでもありません。単純に、「自分はいま何を観せられているんだろう」と観客を引きつけ、冒頭から興味を持続させる役割もあります。
さて、この第一幕の巧妙な点は二つあります。一つは、第三幕のための布石として随所に違和感を感じさせるポイントがあるにもかかわらず、観客には「そういう映画」という先入観でこれを納得させ、バレずに素通りさせやすくしてしまうことです。伏線の張り方として非常に巧みであり、これが「気づき・発見」の面白さに繋がるわけです。
もう一つは、ここで観客にツッコませることで、いわば「好き勝手言える視聴者」に観客をあえて変身させていることです。第一幕を観ていると、「おいおい腕が見えてるよ!」「なんだこの変な間は?」「画面ブレブレじゃないか!」といったツッコミをしたくなります。しかし、第三幕でその「舞台裏」を見せられると、その印象は変わってくるわけです。ワンカットって、生中継ってこんなに大変なのか。こんなに苦労があったのか。こんなにトラブル続きだったのか……などなど。観客は、そういう意味での「気づき・発見」も体験させられるのです。
このように考えると、まさに「伏線回収の面白さが、そのまま作品のテーマを伝える」ような構成になっていることがわかります。これはエンタメ作品としてまさに理想的な姿勢であるといえます。そして本作が伝えるテーマとは、クリエイターへの賛歌・映画への愛といったものになるでしょう。
しかし恐ろしいことに本作は、実はこれだけでは終わりません。より普遍的な物語にする工夫が、主に第二幕に詰め込まれているのです。
■普遍的な物語としての巧みさ
第二幕に移ると、観客はその落差に驚きます。手作り感満載だった画面は途端にカッチリしたものになり、第一幕で見知ったキャラクターは性格もバックグラウンドもまるで異なっています。その瞬間、観客は「こちらが現実だったのだ」ということに気づくわけです。
この第二幕における「落差」は映画の緩急をつける意味だけでなく、物語構成においても非常に重要な意味を持っています。
ここで特にフィーチャーされるのは、主人公である監督のクリエイターとしての「落差」です。第一幕での彼は、「これは俺の作品だ!」と叫びながら、一つのシーンに42テイクも費やし、作品にとことん「ホンモノ」を求めるクリエイターでした。しかし、これはしょせん劇中劇でのキャラクター設定であり、彼の虚構の姿に過ぎません。実際、第二幕で描かれる現実の彼はその真逆といっていいでしょう。演者やプロデューサーの勝手な要求に悩まされ、画面をろくに見ずにオッケーを出し、泣きのシーンで目薬を使わせてしまうのです。そんな彼へのアンチテーゼとして娘の真央が配置されています。
ただし、こういった「理想と現実の乖離」は、何もクリエイターだけに付きまとう問題ではありません。なりたい自分になれない、やりたい仕事ができない、築きたい関係を築けない……。これはむしろ、誰もが人生で直面する普遍的な問題です。このように「人間」がちゃんと描けているからこそ、単なる業界の内輪ネタにならない普遍性があります。
■映画としての巧みさ
本作のバランス感覚が非常に優れているのは、そういった主人公の「あきらめ」も、娘の「ねばり」も、どちらも否定していない点です。それは第三幕の「舞台裏」および、そこから生み出された『One Cut of the Dead』という作品そのものが示しています。
例えばこの作品、そもそも主人公の「安い、速い、質はそこそこ」というスタンスを買われてオファーされたものです。製作に入ってからは演者もプロデューサーも好き勝手し放題なわけですが、そんな中でも彼はなんとか場を取り持っています。撮影開始直前でさえ、「これは君の作品なんだよ」と演者をなだめていました。つまり、『One Cut of the Dead』は、主人公がある程度の「あきらめ」を知っていたからこそ作れたものだったと言えます。
一方で、このオファーを主人公が受けた動機は、もうすぐ家を出る娘に少しでもいいところを見せたいという願いでした。撮影の舞台裏では様々なトラブルが発生し、何度も「中止にしよう」という声が挙がるのですが、彼は「撮影は続ける! カメラは止めない!」と叫ぶわけです。その姿に娘も感化され、なんとか作品を作り上げようと協力するようになっていきます。つまり、『One Cut of the Dead』は、主人公が父としての矜持・クリエイターとしての矜持を捨てずに「ねばり」続けたからこそ作れたものだったとも言えるのです。
こう考えると、第三幕には「クリエイターへの賛歌」「映画への愛」といったテーマを含む、より大きな文脈が付与されるように思えてきます。すなわちそれは、「理想と現実の板挟みに悩む人へのエール」です。トラブル続き・理不尽続きの「現実」の中で何度も転びながら走り回り、それでもなんとか作品を完成させたいという「理想」を語り続ける。彼らのその姿勢は「映画のマジック」を引き起こします。アル中の禁断症状を抑えられず飲んでしまった酒、女優を諦め何気なく観ていた護身術の番組、かつて悔し涙を流したバスケの経験……などなど、現実の人生におけるあらゆる経験が、「それでもカメラを止めない」ことによって偶然にも活かされ、虚構の作品としてパッケージされていくのです。現実("本当")を切り取って虚構("嘘")を作り上げる映画製作という行為は、現実の中でなんとか理想に近付こうとする人間のもがきそのものなのです。
実際、本作は第三幕だけ観ると痛快なコメディなのに、初めて第一幕を観たときはちゃんと「ゾンビ映画」として我々に届いているわけです。その鑑賞体験自体が「映画のマジック」を伝えていると同時に、それは理想と現実の板挟みの中でもがくすべての人への希望となるのです。
以上のように考えると、本作の三幕構成を以下のように捉え直すことができます。
第一幕:ワンカットゾンビ映画『One Cut of the Dead』→理想・嘘
第二幕:ワンカット映画を取るまでの前日譚→現実・本当
第三幕:ワンカット映画の舞台裏→理想と現実、嘘と本当の融合、「映画のマジック」
そういう意味で、ラストの組体操は作品のクライマックスであり、テーマの着地点であると言っていいでしょう。クレーンなしでもあのラストシーンを撮りたい。それはまさに「どうしようもない現実の中にあっても理想を叫ぶ想い」です。そんな監督の想いが娘に伝わり、ひいては演者やスタッフに伝わっていきます。撮影の裏話ですが、あの「人間ピラミッド」は本番当日まで一度も成功できず、土壇場で奇跡的に成功したシーンなのだそうです(公式パンフレットより)。まさに理想と現実、嘘と本当、父と娘……その全てが渾然一体となり、『One Cut of the Dead』および『カメラを止めるな!』は完成したわけです。
■カメラを止めるな!
驚くべきは、本作がインディーズ映画であることを巧みに利用している点です。それは前述したような、観客の先入観を利用した巧みな伏線という技巧的な部分に留まりません。本作は主人公の監督をはじめ、華々しく大成していないような人々がもがき続けることで本物の「スター」になっていく話です。すなわち、無名のスタッフによる低予算のインディーズ映画だからこそできる話にちゃんとなっているのです。
さらに感動的なのは、現実における本作の動向が作品内容を体現するようなものになってきていることです。ミニシアター2館での上映から始まった本作は、その後口コミによる「感染」により、今後大手シネコンを含む100館以上で展開され、海外にも羽ばたいていきます。まさに理想と現実、嘘と本当が融合して、世界を変えていっているのです。
エンドロールでは『カメラを止めるな!』という映画を撮る人々が映し出されます。「映画を撮る」という行為の入れ子構造は、さらに続いていくことが示されます。そこで流れる主題歌『Keep Rolling』の歌詞を以下に一部抜粋します。
1.2.3.4止めないで
見つめ合い崩れそう時間だけくるわないの
なんとなく止めちゃダメ
まわれ まわれ もう 時間はね止まらないの
(公式パンフレットより)
どうしようもない現実。やってられない現実。それでも時間は止まらず続いていく。
ならば転びながらでも走り続けろ!
カメラを止めるな!
そんな希望あふれるメッセージをエンタメ作品として、普遍的な物語として、映画として、そして『カメラを止めるな!』という現象として伝えてくれる、とんでもない一作でした。
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